2017年07月17日

【新連載】白南風ドロップス 1

  白南風ドロップス  一
                                    大塚慎太郎 

一、雨蛙二匹、歌う
 カチャンと小さな音が響いた。学生寮には似つかわしい、安っぽい音である。前時代の湯飲み型のドアノブをひねり扉を押し開くと、六月の陽光に暖められた空気がゆっくりと陽鞠の体にまとわりついた。板間に足をかけながら上靴を脱ぎ捨て、右手の襖を開ける。部屋の隅に荷物を下ろすとすぐに部屋奥にある窓を開け放った。全開にしたドアにストッパーを噛ませ、襖を薄く開けると、室内に心地良い風が流れ始める。北向きの部屋は夏でもある程度の涼しさが保障されるので、暑さを苦手とする陽鞠には有難かった。椅子の背もたれにカーディガンを脱ぎ捨て、そのままの勢いで靴下も脱いでしまう。畳の上に寝転がると、ひんやりとした畳の感触が、まくり上がったスカートの下から覗く太腿に伝わった。見慣れた天井の木目を視線でなぞっていて初めて、陽鞠はルームメイトの不在に気付いた。
 また生徒会か。
 電気も点けず、薄暗い中で微睡んでいると、段々と瞼が下がっていく。特にそれに抗うこともせず、夕食までか、美乃が帰って来るまでか、少し眠ろうとした。この時間なら人の出入りもあるだろうし、そもそも人が中で寝ているのに盗みに入ろうなんて威勢のいい生徒は、この学校にいないだろう。でも、また美乃に怒られてしまうのだろうな。そんなことを頭の片隅で呟いている間に、瞼は完全に閉じた。

「寝るなぁ! 寝たら死ぬぞー!」
 頭上からの大声に陽鞠は飛び起きた。上体をひねって振り返るとそこには、にやにやと子供じみた笑みを浮かべる少女が一人。手には丸められたノートがある。「生徒会ノート」と書かれていた。少女美乃は、自分の机の横に荷物とノート、脱いでいたベストを置くと、陽鞠に向き直った。その顔にはもういたずらっ子の色は無く、ただ優しく垂れ下がった目と眉、そして柔らかく結ばれた唇が見える。陽鞠は時計を確認した。彼女が部屋に戻ってから十分と経っていない。美乃は陽鞠が眠ってすぐに帰ってきたのだろう。半端な時間寝てしまった陽鞠の頭は、ひどく重たい。
「お帰り。ずいぶん早かったじゃない」
 畳の上で乱れた髪を、手櫛で整えながら陽鞠は言った。その目の中には隠そうともしない不機嫌さが揺れている。
「テスト前だしね。あんまり議題が無かった」
 美乃はクローゼットの中にベストを掛けた。続いてスカートのホックに手を伸ばす。ゆっくりとスカートが下ろされ、白い裏腿が露になった。
 美乃が制服からゆったりとしたワンピースに着替えたのを見て、陽鞠も重たい腰を上げて制服を脱いだ。直立したままにホックを外されファスナーを下されたスカートは、パサリと軽い音を立てて畳に落ちる。花というよりシャンプーハットのような、皺くちゃに折り畳まれたスカートサークルから出た陽鞠は、ワイシャツも脱ぎながら箪笥を漁る。綿百パーセントのブラウスとカプリパンツを取り出すと、それをするすると身に付けた。
「ご飯まで、どうする? テスト勉強でもする?」
 美乃の言葉に陽鞠はうんざりした顔を返した。しかし、定期考査まであまり時間があるとは言えず、普段予習も復習もろくにしていない彼女からすると、この時間の勉強はとても大切だった。唸るような声を漏らしながら勉強机に着くと、通学鞄の中から生物の問題集を取り出す。
「ひまちゃんは生物より、数学とかのがいいんじゃない?」
 美乃は英語の教科書を取り出しながら言った。抽斗から音楽プレイヤーも出し、イヤホンコードの絡みを解いていく。
「うるさいわね。やる気が出ないとき、まずは好きなのからやって、モチベーションを上げていくのがいいって言うじゃない」
「きみの場合、好きなのやって終わっちゃうじゃん」
 陽鞠は言葉に詰まった。何か言い返さなくてはと言葉を探しているうちに、美乃はイヤホンをはめ、英語のリスニングを始めてしまった。ぽってりと肉つきの良い耳に装着されたイヤホンからは、ネイティヴスピーカーによる英長文が流れていた。ふっくらした唇が僅かに動いている。時折下唇が噛まれるのは、エフの発音かヴィーの発音か。英語にチャンネルを合わせた美乃の頭に、日本語をねじ込むことはできない。仕方なく陽鞠は、喉元で不完全燃焼している言葉の素たちを腹に押し込んで、机の上に生物の問題集を広げた。赤シートを手にし、赤インクで書かれた重要単語たちをなぞりながら頭の中で反芻していく。
 着替えをしたことで少しだけ冴えた頭が、ゆっくりと回り始める。
 問題集用のノートを取り出し、問題集の隣に置いた。所々単語の抜けた文章を読みながら、語群もなぞっていく。シャープペンを持ち、選び出した単語をノートに書きだしていった。
 一通り解いて解答と照らし合わせる。殆ど正解。その結果にほくそ笑みながら次のページへ進んだ。ただ彼女は忘れてはならない。この問題集は、講義のページが最初にあり、基本的単語の確認を文章の穴埋めでする。その後、一問一答形式で理解を深め、記述式の文章問題で精錬させる。これを解いただけでテストや模試に挑んでも十分に対応できる優れものなのだ。つまり今彼女が解いたのは基本知識を持っているか確認するものであり、これが解けたところで、定期テストでは大問一の問題文が理解できる程度なのである。
 次の一問一答では所々空白ができたが、しばし考えても一向に解決の鍵が見つからないので、諦めて解答のページを開いた。空白の欄には一部、先ほど講義で読んだばかりの単語が入り、自信を持って書いた答えの中にも間違いが見つかる。めげずに文章問題に進んだはいいものの、読むのが精一杯でとても解けそうにない。始めた時は嫌々だったが解いているうちにやる気も湧いてきていたのに、そのせっかくのやる気が、間違いと意味不明な単語たちによってするするとしぼんでいく。
 文章問題に進んですぐに集中の切れた陽鞠は、ペン回しやツボ押しを始めた。左手の腹を揉んで、合谷の周りを指の腹でじんわりと刺激する。
 部屋の扉は美乃が閉めたろうが、窓はまだ開いていた。部屋の中に風が入ってくる。陽鞠の前髪を優しく揺らした。問題集のページが端からはためく。
 ひらりと舞ったページを押さえる左手の中指、一つだけささくれのできたそれの先にある陽鞠の爪は小さく丸い。形良く整え、丁寧に磨かれている。それに対し、美乃の爪は縦に長く、極めて女性的な形である。普段の彼女からすると少し伸びているそれからは、彼女の多忙さが伺える。
 美乃はリスニングしながらも、時折ノートを確認したり、本文中に何かを書き込んだりしている。凄まじい集中力でやるべきことを着実に終わらせていく彼女は、ずらりと新出単語の並んだルーズリーフを片手に、椅子から立ち上がった。単語は歩きながらの方が頭に入るとは彼女の談である。
 いつの間にか靴下を脱ぎ、白い脹脛をむき出しにしていた。縦半分に折り畳んだルーズリーフを時折裏返して、意味や品詞を確認する。部屋を歩き回っていた美乃は、ちらと陽鞠を見やり、彼女の手が止まっていることに気付いた。
「集中できない、のは私が歩き回ってるせいじゃないよね。また赤点取っちゃうよ」
 美乃は陽鞠のノートを覗いた。後半から増える赤字に少々眉を顰める。陽鞠はノートの上に覆いかぶさった。むすっとしたした顔で口を開く。
「『また』とは何よ。取ったことないわよ、赤点なんて」
「あれ、そうだっけ? 一回くらいは取ったものだと」
 美乃のふてぶてしい物言いに、陽鞠は頬を膨らませた。美乃は持っていたルーズリーフを机に置いて、柔らかい手で陽鞠の頬を両側から挟む。空気は小さな頬からすぐに逃げていった。
「これが一回目なのよ。これからやってくうちに分かるようになるのよ」
 陽鞠は強い口調で断言した。その言葉を吟味するように、美乃は目を細める。机に置いていたルーズリーフを再び手に取る。
「キャンサー」
 突然呟かれた英単語に、陽鞠は言葉を無くす。しばし黙ったあと、両手を鋏の形にして顔の横に持ってきた。
「……か、かに!」
「それを言うなら、かに座ね。でも本文に『かに』なんて出てこなかったじゃん。……がん、腫瘍ね」
 少々呆れの混じった声で答えを陽鞠に与えた。ひらひらとルーズリーフを振り回す。
「ほらほら、英語もまずいよー」
 ていっという掛け声とともにルーズリーフを陽鞠に投げつけると、美乃は自分の机に戻っていった。英語の教材をてきぱきとしまって、今度は数学の問題集を出す。彼女の単語集を顔で受け止めた陽鞠は、ルーズリーフを机に叩きつけると生物の問題集に向き直った。

 試験範囲を二周したところで、外していた腕時計に目を向けるともうそろそろ夕食の時間だった。陽鞠は嬉々として美乃に声をかける。
「美乃ちゃん、美乃ちゃん。そろそろ、あれのお時間なんじゃないですかねー?」
 美乃はゆっくりと陽鞠に顔を向けた。美乃の手元の問題集は数字と記号が、ノートには赤丸が散り、順調であることが窺える。彼女は小首を傾げる。
「何? 金魚の餌やり?」
「違うわよ。ご飯、晩ご飯!」
 少々むくれた顔を見せながら、陽鞠は机の上を片付け始める。といっても、教材とノートを互い違いに閉じ抽斗にはしまわないところを見ると、夕食後もまだやる気でいるらしい。それを見届けた美乃は、感心とばかりに大きく頷き、同じように机の上を片付けた。
「今日のご飯は何だろねー」
「さあ。まあ、でも夏野菜たっぷりっていうのは間違いないわね」
 すんと鼻を鳴らす陽鞠に、美乃は目を向けた。理由を問う目である。それに応えるように陽鞠は口を開いた。
「おばさんがたっくさん抱えてるの、帰りに見かけたわ。ちょっと運ぶの手伝ったのよ」
 陽鞠は腹の前で野菜を抱える仕草をした。おばさんとは、この寮の寮母である。夫と共に住み込み、生徒たちの健やかな日々を支えている。
「それは楽しみだね。カレーかなぁ」
 美乃は色々と考えを巡らせながら、靴下を履いた。開いていた窓から一度顔を出し、空を見上げ、それから窓を閉めた。陽鞠も靴下を履き、上靴も靴箱から取り出して履く。彼女が帰ってきたときに脱ぎ捨てたはずのそれは、美乃によって靴箱に片付けられていたようだ。
「お、君たちも今から?」
 廊下の奥から歩いてきた女性が、部屋を出た二人に声をかけた。背が高く、短い髪や少し焼けた肌から、運動部に所属していることが窺える。彼女は陸上部に所属する高校三年生、平塚徹だ。彼女は普段部活で遅くなるので、夕食に時間通り来ることは珍しかった。彼女が今日こうして夕食が始まる時刻に食堂へ向かおうとしているのは、今日が試験一週間前で部活動が休みだからだった。
 逆に、よく見るのは彼女と同室の二ツ橋小夜子だが、その姿は見当たらなかった。陽鞠と美乃は徹の後ろを覗き込んで、不思議そうな顔をする。
「ああ、小夜子? 小夜子はね、勉強の区切りがつかないらしくて、遅れるんだって」
 三人は揃って、食堂のある一階に向かった。じわじわと他の生徒も部屋から出てきている。廊下にはカレーの匂いが漂っていた。食堂に着く前から、陽鞠と美乃は互いに顔を見合わせてにやついていた。
「夏野菜たっぷりだね」
「トマトに、お茄子、あと苦瓜も入ってるわね」
 そう言って二人でくすくすと笑う。一人状況の分かっていない徹は訝しむような目を向けた。その視線から逃げるように、二人は小走りで配膳台へ行った。
「徹ちゃん、徹ちゃん」
 すぐ後ろで徹を呼ぶ声がした。彼女の着ていたシャツの裾が引かれる。振り返ると、小夜子が立っていた。
「世界大戦は終わったの?」
 徹の問いに小夜子は頷く。小夜子は世界史選択であった。二人は連れだって配膳台に向かう。
「さっき美乃と陽鞠に会ったんだけど、なんか笑いながら先行かれちゃったよ」
「あの二人はよく分かんないもんね」
 徹の困り眉の隣で、小夜子はころころと笑い声を立てた。小夜子は配膳台の端に並ぶ箸やスプーンに手を伸ばした。徹の分も取って渡し、同じく台に置かれたトレーを持つ。ゆっくりと横に流れながらトレーに料理の入った皿が置かれるのを待った。配膳台の前での私語はご法度となっているため二人は無言でいるが、少し前のほうでは美乃が哄笑していた。陽鞠と美乃が私語を慎まないのはいつものことであるし、彼女はすでに配膳台の列を離れようとしているところだったので、咎める者はいなかった。
 配膳を終えた少女たちは、食堂に並べられたテーブルから、思い思いの場所を選ぶ。今日は大体の生徒が時間通りに食堂に集まり、いつもより多くの席が埋まっている。小夜子と徹は窓際のテーブルに歩いて行った。二人は、冷房ですぐに体を冷やしてしまう小夜子のため、風が当たりにくい部屋の端のほうの席を多用していた。
「あれ、先客だね」
 二人が目指した席には、すでに陽鞠と美乃が着いていた。
「相席していい?」
 テーブルは四人掛けだったので、徹は二人に尋ねた。二人は同時に頷く。小夜子が手前側の美乃の隣、徹が奥に座る陽鞠の隣にトレーを置いた。二人が席に着くとほぼ同時に、前の開けたスペースに一人の生徒が出てくる。皆の視線が集まっているのを確認し、一拍置いてから話し始める。
「さあ、皆さん。席に着きましたね。今日の食事当番班長、高辻夏央です。お食事は揃っていますか? 今日の献立は、夏野菜たっぷりカレー、ビネガードレッシングのしゃきしゃきサラダ、キウイフルーツ入りヨーグルト、麦茶です。大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」
 ここで言葉を切り、ぐるりと部屋を見渡す。名乗りを上げる生徒がいないことを確認し、続けた。
「はい、大丈夫みたいですね。本日から定期考査一週間前ですね。しっかりご飯を食べて、しっかり勉強して、いい成績を取りましょう。例年、寮生の成績は自宅生よりも良い傾向にあります。皆さんも、先生から『やはり君は優秀だね』と言われたことがあるでしょう。またときには、小さい失敗をしたときでも叱られ、執拗に小言を言われ、『寮生なのに、君はこれしきもできないのか』と言われたこともあるでしょう。しかし、ここでめげてはいけません。もっともっと勉強して、成績優秀者になれば、たとえ自分以外に誰もいなかった校長室で割れた高級花瓶を手にしているところを見られても、『君のことだ。何か理由があるのだろう。聞いてみようじゃないか』と言ってもらえます。……言ってもらえます!」
 最後は力強く、叫ぶに近い声を上げた。小夜子が小さく呟く。
「体験談かしら?」
 その声は夏央には届かず、彼女は話を続けた。
「と、まあ、長くなりましたが、とりあえず美味しいご飯を食べましょう! 手を合わせてください」
 快活な掛け声と共に自身も胸の前で合掌する。他の少女たちもそれぞれ合掌した。夏央がいただきますと言うと、他の少女たちもそれぞれ合唱した。
 徹はスプーンを手に取り、カレーを掬った。大きく口を開けてその中に放り込む。幸せそうな顔で咀嚼し嚥下すると、それとは違う用途で口を開いた。
「何か珍しいね、二人が窓際に来るなんて」
「うん、私たち、大体いつもここだけど、一緒になったことってないんじゃないかな」
 サラダを食べていた小夜子も同調する。陽鞠はサラダを、美乃はカレーを口にしていたので、カトラリーも持ったままに身振り手振りで説明しようとするが、小夜子と徹には伝わらなかった。二人はすぐ諦めてじゃんけんをしだした。数回のあいこの後、負けた陽鞠は箸とサラダを置いて懸命に咀嚼する。どうやら飲み込んだ後に陽鞠が話してくれるらしいことを察した二人は黙ってその様子を見ていた。だが、その間に美乃はいち早く口の中のものを片付け、麦茶で一服した。彼女の脚を、お前が話せとばかりに陽鞠が蹴る。麦茶を置いた後で蹴ったのは、陽鞠の優しさだろう。口を尖らせつつも美乃が二人に話した。
「今日は雨が降りそうだから、どっちが早く気付くかゲームしてるんです。早く気付いた方が、おかず一品もらえるんです」
 美乃が言い終わったとほぼ同時に、陽鞠はサラダを食べ終えた。
「えー、それ、カレーでやるのは酷じゃない?」
「いつもそんなことやってるの?」
 小夜子と徹は口々に疑問を述べた。
「漢と漢の戦いです」
「いつもじゃないですよ。雨が降りそうなときだけ」
 陽鞠と美乃は、今度はそれぞれに手分けして答える。窓の外は仄暗く、雲が重くのしかかってくるようだった。まだ日は落ちていないだろうが、その顔を拝むことはできない。
 その後、四人は雑談を交えながら夕食を楽しんでいた。小夜子や徹が持ち出す主に三年生の話題だったため、あまり他学年と関わりを持っていない陽鞠は、少し口数が少なかった。
「で、その時茜が通りかかって……」
「はい!」
 笑い交じりに話す徹を遮るように、陽鞠が声を上げた。カレーが乗ったままのスプーンを勢いよく窓に向ける。それを見て徹は少し青い顔をした。
「降ったわ。私の勝ちよ」
 勝ち誇る陽鞠の向かいで、呆気にとられる徹の斜向かいで、小首を傾げながら苦瓜を口に含んだ小夜子の隣で、美乃は眉を顰めた。
「どこなの?」
 窓の外を覗き込み、雨滴の跡を探す。陽鞠はスプーンの上のカレーを頬張ると、窓を指で叩いた。
「陽鞠ちゃん、口の端に付いてるよ」
 小夜子の注意を聞き、ちろりと赤い舌を覗かせた陽鞠は、綺麗になった口を開く。濡れた地点を詳細に説明した。徹も身を乗り出し、美乃と一緒になってその場を探す。一足先に見つけた美乃は、負けを認めた。
「私の負けだよ。ほしいの言って」
 聖母のような微笑みを浮かべた美乃に向かって、陽鞠は赤子のような笑顔を見せた。両手を可愛らしく頬に添える。
「うーんとねぇ、ひまりぃ、カレー食べたぁい」
「きも」
 冷徹な美乃の言葉に、陽鞠は薔薇色の頬を引き攣らせた。しかしめげずにもう一度言う。
「ひまり、美乃ちゃんのカレーが食べたいなあ」
「きも」
 陽鞠は、手はそのままに低く凄みを利かせた声を出す。
「もっかい言ってみろ」
「きも」
 暖簾に腕押しといった対応を見せる美乃に、痺れを切らした陽鞠はテーブルを叩いた。麦茶の表面に僅かな波紋が広がる。隣に座る徹が慌てて湯飲みを抑えたが、その振動による波紋のほうが大きいことに彼女は気付いていない。
「つべこべ言わずに寄こしなさいよぉ」
「素直に負けを認めて下手に出れば、すぐつけあがるんだから!」
「だってひまり、勝ったんだもん。勝者こそ全て、勝者こそ正義」
 陽鞠の言葉にこれ見よがしに溜息を吐き、ぶすくれた顔のまま美乃は自分のカレー皿を持ち上げて、陽鞠の皿にいくらか移した。陽鞠はにんまりと目を細める。
「ありがと、美乃ちゃん」
 甘い声を出す陽鞠に、また美乃は小さく低く、「きもい」と言った。
 外では、雨が静かに地面を濡らしていく。

 その後、四人での談笑を交えた夕食は、和やかに終了した。このまま二人だけにしても大丈夫か、部屋に帰して喧嘩にでもなったら、と危惧する徹をよそに、小夜子は陽鞠と美乃に別れの挨拶をして一足先に部屋に戻っていった。扉を開け陽鞠は全身、美乃は半身、部屋に入った状態を見て、徹も後ろ髪を引かれる思いではあるが、「おやすみ」と言って帰った。
 雨の様子を見ながら窓を開けた陽鞠は、しおらしい態度で勉強机に向かう。美乃も席に着いた。出しっぱなしにしていた問題集を再び開く。数式に誘われるように、ノートにシャープペンを付けた。
 シャ、シャとペンが紙を滑る軽い音と、ささやかな雨音が響く。
 一時間、二時間、ずっと黙って勉強していた美乃は、ちらと陽鞠の様子を盗み見た。彼女は執拗に消しゴムを捏ねている。集中が切れているのは明らかだ。
「あー、お腹すいたー。勉強するとお腹すいちゃうよねー。しっかりご飯食べたのになー。あれー、でも、誰かさんのせいでちゃんと食べられなかったんだっけー」
 シャープペンの芯をしまいながらのんびりとそれだけ言い切って、椅子から降りると、畳の上にごろんと寝転がる。何事かと陽鞠は顔を向けた。
「もーお腹ぺこぺこで勉強どころじゃないやー」
 ころころと畳を転がりながら美乃は言う。南側からスタートして部屋を三往復し、四回目の往路で勢いよく北側へ向かい壁にべしゃんとぶつかった。そのまま壁に向かい静止する。陽鞠が椅子から立って、美乃の脇腹に手を伸ばした。美乃は脇腹をつつかれ小さな笑い声を漏らしながら、天井に向き直った。
「誰かさんが私のご飯取ったからぁ」
 極め付けとばかりに美乃の腹から発されたキュルキュルという音に、二人は小さく噴き出した。
「おばさんにおにぎりでも作ってもらおうか?」
 陽鞠の言葉に美乃は笑顔を漏らす。

 他の寮生の邪魔にならないよう静かに階下に行った二人は、最初に食堂に行った。だが、扉には鍵がかかっていて、中から鍵を開けてくれる人もいないようだった。
「寮監室かな?」
 寮監夫妻は主に一階ホール横にある警備室か寮監室にいる。寮生が寮監室に許可無く入ることは禁止されているが、廊下に面した扉か警備室から呼びかけることはできた。二人が暗い廊下をホールまで歩いていくと、警備室の灯りがついているのが見える。果たして寮母は警備室にいた。寮の入り口が開いている間は常駐している寮父は、今は門限をとうに過ぎているため、寮監室に引っ込んでいるようだ。
 多くの警備室に同じく、この寮の警備室もホールに面した壁に硝子窓がはまり、中の様子がよく見える。硝子窓は半分開いていた。
「おばさーん」
 硝子窓の下に張り出した書き物台に手を添え、二人で声をそろえて呼びかける。
「お夜食作ってください」
「あら、陽鞠ちゃん、美乃ちゃん。ちゃんとお勉強したの?」
 同時に頷いた二人に、寮母は顔を綻ばせた。警備室を出ると食堂に向かう。上靴の音をパタパタと立てながら、二人も後を追った。
 食堂の扉を開き壁際のスイッチを押すと、カチカチと小さな音を立てて次々に蛍光灯が光り出した。非常口の灯りに青白く照らされるばかりだった部屋は、すぐに明るくなる。寮母はそのまま調理室に入った。
「おにぎり食べたいです」
「私、具はツナマヨがいいです」
「あ、私は梅干し」
 食堂から寮母に注文する陽鞠と美乃を見て笑いながらも、寮母は味噌汁を作り始めていた。湯を沸かしながら大根やじゃが芋を切っていく。
「こんな時間にご飯は身体に悪いから、だめ」
 その言葉に二人は大人しく引き下がった。手近なテーブルにかけ出てくるのを待つ。すぐに鰹出汁の匂いがふんわりと漂ってきた。
「勉強進んだ?」
 美乃が、机上に置かれた陽鞠の手をつつきながら聞いた。
「完璧よ。まだ授業でやってないところもマスターしたわ。これでテストは満点ね」
 すんと鼻を鳴らす陽鞠を、美乃は冷ややかに見つめた。諭すように言う。
「ひまちゃん、定期考査は生物だけじゃないんだよ」
「うっ」
 美乃の言葉に撃たれたように、陽鞠は胸を押さえる。美乃はそれに乗り、手を鉄砲の形にして陽鞠に向けた。
「ばん! ばーん! どどどど」
 銃の音を口で言うのに合わせ、手を動かす。陽鞠は叫び声をあげて頭を抱えた。
「ひ、卑怯だわ! 一般市民に銃口を向けるなんて」
「お嬢ちゃん。戦をなめちゃあ、いけないよ」
 尚も撃たれる弾丸に、陽鞠は席を立って逃げ惑う。いつの間にかライフルに持ち替えたらしい美乃は、それを追い駆けた。
 陽鞠は壁際に追い詰められ、へたり込む。その額に銃口が突きつけられた。
「これで終わりだ。全てお終いにするんだ」
「主よ、祖国を救いたまえ」
 陽鞠は目を閉じ十字を切ると、弾丸を額に受けた。顔をゆがめた美乃は、銃口から出る煙を吹き消した。
「できたよ。取りにおいでー」
 寮母に調理室から声を掛けられ、すぐに二人は配膳台に駆け寄る。
「ありがとうございます」
「いただきます」
 二人は箸と味噌汁を運び席に戻った。手を合わせてから味噌汁に口をつける。大根、じゃが芋、豆腐の入った味噌汁を、競うように飲む。
「お味はどう?」
 調理室から出てきた寮母に、二人は「美味しいです」と笑顔を見せる。つられて笑顔になる寮母の手には、ヨーグルトが入った皿があった。
「これも食べて、勉強頑張ってね」
 予想外に付けられたおまけは、恐らくは夕食の余りなのだろう。二人は素直に礼を言って、ヨーグルトに手を付ける。食べ終わると皿を下げて後片付けもし、食堂を後にした。寮母に礼を言って部屋に戻る。
 部屋に入ってすぐ畳の上に寝転がった陽鞠を、美乃は抱き起こした。机の上に置いてあった数学の教科書を手に取る。
「美乃ちゃんの、よく分かる数学講座ぁ」
 どんどんぱふぱふと口で言って、陽鞠の問題集とノートも彼女の鞄から取り出す。数学一色の教材を手に、陽鞠を見下ろした。畳に座り込む陽鞠は口を尖らせる。
「お風呂はぁ?」
「あと一時間、一時間頑張ろう」
 おばさんにも頑張れって言われたし、という言葉に、渋々陽鞠は席に着いた。美乃も自分の椅子を引き寄せ、机の横に座る。
「試験範囲は?」
 美乃の言葉に答えるように、陽鞠は問題集の目次を開いて、単元に丸を付けていった。
「で、どこまで勉強したの?」
 陽鞠は少し言葉に詰まり、「えへへ」と笑う。
「可愛くすればいいってもんじゃありません」
 美乃が誤魔化されるわけもなく、陽鞠の笑顔は空しく一蹴された。
「はい、じゃ、シャーペン持って。最初から解いてみましょう」
 美乃に言われるがまま、陽鞠は問題を解いていった。時折手を止めて美乃に解説を求めるが、すぐに理解して解き進めていけるようで、順調にページ数が増えていく。

「はい、おしまい! よく頑張ったね」
 美乃の声を聴いて、陽鞠は大きく溜息を吐いた。赤丸の並ぶノートを手早く片付け、身体をほぐすように伸びをする。
「あー、文系に理系科目教わるって屈辱ね……」
「そんなに?」
 美乃は首を傾げた。陽鞠はその様子を見て、「これだから成績優秀者は……」とうんざりした表情を出す。
「あんたも、私に文系科目を教わるところを想像してみなさい」
「あー、確かに。ひまちゃんに日本史教えてもらうのは屈辱かも」
 陽鞠の言葉に、美乃は口元に手を添えしばし考え込んでから応えた。入浴の準備をしていた陽鞠が勢いよく振り向く。
「ちょっと、それ意味変わってるでしょ! 私に教わることが屈辱でしょ!」
「あれ、ひまちゃん自覚あり? んびゃ」
 陽鞠は美乃のにやついた顔にタオルの塊を投げつけた。おかしな声を上げた美乃も、口を尖らせながら箪笥を探り、下着を取り出した。同じく箪笥から出した、大きめの巾着袋にタオルと共に詰める。陽鞠はさっさと支度を済ませ、二つ重ねた洗面器とその中に巾着を入れて畳と板間の境に立っている。
「お待たせ」
「待ってないわよ」
 まだ少しむすくれた顔をしている陽鞠は、手早く上靴を履きそそくさと廊下に出た。一拍遅れて美乃も続く。浴場は一階西側の端にある。食堂へ行くときに使うものとは別の階段を使う。二人は部屋の鍵を掛けたことを確認すると、廊下を歩きだした。静かな廊下に二人分の足音が響く。
「静かだねぇ」
「テスト前はいつもこーでしょうが」
 美乃がしみじみと漏らした言葉に、陽鞠は間髪入れず返した。
「慣れないんだもん。談話室にも誰もいないしなー」
 二人の歩みが階段に差し掛かったところでようやく、下からざわめきが聞こえてきた。
「よかったわね。風呂場は騒がしそう、よ……」
 踊り場を曲がって一階の床が見えたとき、陽鞠の言葉は覚束なくなり、消え入った。
「何か人多くない?」
「帰る?」
「帰ろっか」
「帰ろっか」
「帰ろ、帰ろ」
 二人は下に向いていた足をくるりと回し、上に向けた。しかし、踊り場から数段上がったところですぐにその歩みは止められる。
「あ、湯ノ宮さん、藤崎さん」
 高校一年の長町真帆であった。後輩の呼びかけに、二人は渋々といった様子で一階まで降りる。浴場前にはちょっとした人だかりができていた。二人は真帆に問う。
「何かのセール?」
「風呂に鯵が湧いたとかなら、私は構わず入るんだけど」
「違いますよ。ああ、葵さん」
 人ごみの中から一人の少女が顔を出した。高校三年の土屋葵である。彼女はもう入浴を済ませたようで、少々髪が濡れていた。火照った頬に手で風を送りながら口を開く。
「森島さんが倒れたのよ」
「えっ、愛ちゃんだったんですか」
 少々驚いた声を上げたのは真帆だ。森島愛は彼女と同じ一年生で、普段からある程度交流があった。心配そうに「大丈夫なんですか?」と問いかける。
「ただのぼせただけよ。周りに人がいたから溺れたりはしてないだろうし、大丈夫でしょう」
「でも、何でまた?」
 ここで口を挿んだのは美乃である。
「高辻さんの話っていうか愚痴をずっと聞いてたんだって。私もちょっと温まりすぎたから、ホールで涼んでくるね。それじゃ」
 三人に手を振りながら、葵は廊下の暗がりに消えた。残された三人のうち二人は、余りの一人を見つめる。
「真帆ちゃんはお風呂まだなの?」
「はい。耐水の単語帳持って来たんですけど、やめたほうがいいですかね?」
 真帆は片手に持っていた小さな単語帳を示した。書かれているのは古語らしい。
「まあ気を付けていれば平気でしょ」
 美乃と陽鞠は順に真帆の肩を叩いて、脱衣所に消えていった。そのころにはもう、入り口付近の人だかりは失せていた。真帆も二人を追うように脱衣所に入る。
 中は大いに湿っていた。素足を滑らせるように奥に進むと、時折薄い水溜まりを踏む。床は吸湿性の良い素材なのですぐに水は引くだろうが、あまり気持ちの良いものではなかった。壁際まで辿り着くと、棚の上に置かれた籠を棚に入れ、持っていたトートバッグをその中に置いた。タオルと替えの下着、寝巻をバッグから取り出すと、今までずっと着ていた制服のスカートを脱ぎだした。ブラウスも下着も脱ぐと、それらをトートバッグに詰め込む。タオルと単語帳を持つと、一糸纏わぬ早乙女達を掻き分け、浴場への扉を滑らせた。一層湿度の高い空間へ一歩踏み出した時。
「真帆ちゃあん」
 背後から何とも頼りない声が聞こえてきた。一人の少女が手を所在なげに伸ばし、ふらふらと歩んでいる。同学年の玉井真智子だったが、彼女がいつもしている眼鏡が見当たらない。
「お風呂まで案内してぇ」
 縋るように真帆の手を握り、乞う。屈託そうな手は、その実彼女の目代わりのアンテナだった。真帆の目に真っすぐ注がれているように見える真智子の視線は、全くもって定まらない。真帆は取り敢えず真智子の手を取ると、浴場の中へ引き入れた。
「湯船? 洗い場?」
「湯船ぇ」
 真帆は真智子と共にゆっくりと歩きだす。人を避けるために時折止まり、時間はかかったが無事湯船まで辿り着くと、片手桶を探し惑う真智子の手にそれを渡してやる。
「真智子ちゃんってそんなに目悪かったんだね」
 真帆は、真智子が風呂に入るときに、ここまで人の助けを求めているところを見たことがなかった。真智子が湯を足元に掛けながら応える。
「うん。まあ、湯気で視界が悪いってのもあるんだけど。いつもはね、小百合ちゃんが手伝ってくれるんだけど、今日はね、私が他事してた間に、先に入っちゃったの」
「大変ね」
 真智子ほどではないが自身も視力の低い真帆は、心からそう思った。掛け湯の終わった真智子に手すりの場所を教えて、お湯に浸かった。縁に置いていたタオルの上から単語帳を取り上げる。
「なになに、それ。何かいい物?」
 真智子が音もなく近づいてきた。腕の動きから、真帆が何かを手に取ったことは分かったようだ。
「単語帳だよ」
 真帆は、手を出す真智子に単語帳を渡した。真智子はそれをぱらぱらと捲る。
「ふーん。英語?」
「古語だよ」
 真智子は真帆に単語帳を返した。依然虚ろな目を少し細めて言う。
「長湯は禁物だよー。のぼせて倒れないでね。今の私には助けられない。……愛ちゃん、大丈夫かなぁ」
 真智子の視線が中空を彷徨う。それが先程までとは違い、愛に思いを馳せるために為されたことだと、真帆は気付いた。
「お風呂あがったら、様子見に行こうか」
 真帆の提案に、真智子はすぐに賛成した。
「ところでさ、真智子ちゃんって何でそんなに目悪いの? 遺伝?」
「ううん、親は両方目良いから、十中八九ゲームのやりすぎ」
 そう言って真智子はぺろっと舌を出した。

 その後、無事真智子の入浴を手伝い終えた真帆は、真智子と共に保健室を訪れた。ベッドの上の愛はすでに意識がはっきりしているようで、二人が入室するとすぐに身を起こした。一方、彼女をここに運び入れ、付いていた夏央は、すうすうと安らかな寝息を立てていた。ベッド横に置かれた椅子に座り、ベッドの端に頭を預けた体勢は少々窮屈そうだが、彼女が起きる様子はない。
「もう大丈夫なの?」
「うん、平気」
 そう言った愛の顔は、普段とそう変わらないほどに戻っていた。
「夏央は寝ちゃったのね」
「私が起きたときには、もうすでにこれでね。何か起こすのも可哀想だから、私ももうひと眠りしようかなって寝っ転がったところだったの」
 愛はそう言ってほけほけと笑みを見せる。安心した真帆と真知子は部屋に戻ることにした。愛は夏央が起きるまで寝るらしい。二人を置いて真帆と真知子が廊下に出ると、むんと温い空気が彼女たちの顔を撫ぜた。数人とすれ違いながら階段を昇る。
「夏央ちゃんが起きたときに『起こすの悪いから』って起こさないでまた寝ちゃったりしないかな」
「あー、夏央ならあるかもね」
「夏央ちゃんの動く気配で、愛ちゃんが素早く起きないと」
 二人は雑談を交わしながら階段を昇った。眼鏡をかけた真智子には、もう介助は必要ない。二階に到着すると、二人は別れの挨拶をした。真帆は廊下を、真智子は三階へ続く階段を進み始める。
 三階の廊下もまた、閑散としていた。真智子は自室の扉を軽くノックする。すぐに中にいた遠藤小百合が開けた。風呂上がりでほくほくしている真智子とは違い、小百合の髪は乾き顔の火照りは引いていた。ずっと勉強していたらしく、下膊に教科書を押さえていた痕がある。真智子は室内に体を滑り入れた。ビニールの巾着袋をカサカサいわせながら使用したタオルや下着類を取り出す。小百合は鍵を掛けてすぐに学習机に舞い戻った。シャープペンの頭をカチカチとノックして芯を繰り出す。芯を紙上に置いたところで、真智子が横に彼女の椅子を付けた。甘えた声で不平を漏らす。
「さゆりーん、私を置いて先に行くってのは、いくら何でも酷いんじゃないですかぁ。眼鏡の無い私なんて、フロントガラスの無い車みたいなものだよ」
 凭れかかってくる真智子を、小百合は肘で押し返した。
「よく分かんない例えね。馬鹿なこと言ってないで勉強でもしたら。もう今日はいいの?」
「うーん、いいなかぁ。眠いし」
 真智子はそう言って眼を瞬かせる。小百合は何とも言えない顔をしてシャープペンの芯をしまった。
「そう。あたし、ちょっとコーヒー飲んでくる」
「今から? 眠れなくなっちゃうよ」
「大丈夫よ。子供じゃないんだから」
 小百合は、「子供とか関係あるのかなあ」とぼやく真智子を再び置き去りにして、一階に向かった。

 二階から一階への階段の途中で、先を歩く存在に気付く。陽鞠と美乃だ。二人は別々に鼻歌を歌っている。あまり二人と関わりたくない小百合は少々歩くペースを落としたが、すぐに給湯室で鉢合わせることになる。
 二人は自分のマグカップに水を入れていた。美乃のほうはお湯らしく、息を吹きかけ冷ましながら啜っている。
「こんばんは」
 会釈と共にそう言って、小百合はすぐに二人に背を向けた。戸棚から湯飲みとインスタントコーヒーの粉を取り出し、手早くコーヒーを作る。そのまま二人に背を向けたままコーヒーを飲んでいたが、沈黙が気になり、また自分の背中に二人の視線が集まっているように感じてしまった彼女は、二人を振り返った。四つの目が同時にぱちくりする。
「先輩方、もう寝るんですか?」
 美乃がマグカップに片手を添え、口を開く。
「私はもうちょっとやるつもり。ひまちゃんは?」
「寝る」
 優しく答える美乃とは対照的に、陽鞠は宣言どおり今にも寝てしまいそうな声だ。小百合はそれを聞き、「うちとは逆だな」と内心で独り言ちた。
「ひまちゃん、もう寝るの? 大丈夫? テスト大丈夫? 赤点取っちゃうんじゃない?」
 美乃が白湯で温まった手を口に添え、信じられないといった表情を見せた。陽鞠に言葉の槍をいくつも飛ばす。二人はしばし小競り合いをした後、どういう繋がりか、歌を歌い出した。先程の美乃の鼻歌だったが、小百合は知らない曲だった。二人の様子を見て、小百合は秘かに下唇を噛んだ。
 コーヒーを飲み干した湯飲みを軽く洗って乾かす。陽鞠と美乃も水を飲み終わったが、美乃はもう一度マグカップに湯を注いでいた。そのまま部屋に持ち帰るらしい。三人が部屋に戻る準備を終えると、美乃が給湯室の電気を消した。
 小百合は、並んで歩く二年生の少し後ろを付いていった。二階の廊下でぱたぱたと手を振る二人に礼をして、自分の巣へ戻った。二人も廊下を歩き自室前まで来る。美乃がポケットから鍵を取り出し、扉を開けた。
 美乃は机に向かい、陽鞠は押入れを開けた。静かに白湯を飲みながら勉強する美乃の後ろで、陽鞠は「よいしょ、よっこらしょ」と少々うるさくしながらも着実に寝床を整えていく。美乃は床に広がった白いシーツをちらと盗み見る。マグカップの中の白湯を飲み干すと、陽鞠が掛け布団を取りに敷布団から離れた隙に、それにごろりと寝転がった。
「あーやっぱりもう寝よっかなー」
「自分の布団は自分で敷きなさいよ。これは私のお布団!」
 陽鞠は美乃を布団から蹴り落した。畳の上に無残に転がった美乃は、すぐに立ち上がり、押入れの中に頭と上体を突っ込む。もぞもぞと動きながら敷布団を取り出した。
「もーちょっとそっち行って」
 布団を抱え、ふらふらしながら畳を歩く。足で探りながら、入り口に近い位置に立ち、布団を下ろした。さも大仕事をしたかのように、掻いてもいない額の汗を拭う仕草をする。と、その頭に敷布団がばさりと投げかけられた。
「もうちょっと優しくお願いしまーす」
 敷布団を頭から剥ぎながら、美乃は訴えた。その顔に枕が飛ぶ。美乃は衝撃に堪えきれず布団に倒れ込んだ。素早く起き上がると、顔面に載る枕を掴み振りかぶったが、目の前に歯ブラシと歯磨き粉の入ったマグカップが差し出される。
「歯磨き、しに行こ」
 自分の分も他方の手に持った陽鞠が、こてんと首を傾げた。ぱっと笑顔を見せた美乃は枕を置き、一式を受け取る。
「……優しい!」
 水道は各階東西の端にある。ちらほらと他の生徒の姿も見えた。陽鞠と美乃は並んで洗面台の前に立ち、練り歯磨きを付けた歯ブラシを口に咥える。本体に合わせて、合わせ鏡に映る何人もの陽鞠が歯ブラシを動かす。歯を順々に磨いている間、彼女の視線はふらふらと覚束ないでいた。背中合わせの位置に立つ女子の存在が気になっているのだ。鏡に映る彼女は恋塚凪といって、陽鞠の同級生であった。
 凪のほうも背後の陽鞠に気付いたようで、鏡越しに手を振った。陽鞠も左手を小さく振り返す。凪はそれを見てにこにこと笑った。陽鞠も笑い返そうとして、ぎこちなく口角を引いた。口の端から泡が零れる。洗面台に顔を伏せ、慌ててそれを処理した。美乃は揺れる旋毛を冷ややかに見つめた。陽鞠が顔を上げたときには凪は口と歯ブラシを漱いで立ち去ろうとしていた。
「おやすみ」
「おやふみぃ」
 泡でいっぱいの口で凪に返す。美乃が歯ブラシを漱ぎながら、また見下ろした。
「また垂れるよ」
 美乃を一睨みして、陽鞠も泡を吐き出した。口と歯ブラシを濯ぐ。マグカップも一度水に通して、それぞれの水気を取ると、マグカップに歯ブラシと歯磨き粉を放り込んだ。それを持って、美乃の背中を押しながら水場を出る。
 もう寝ようとしている生徒はいないわけではないが、少数派のようだった。多くの部屋が、薄く扉を開けているのだ。夕立で少々気温は下がったが、その分湿度が上がっている。美乃は涼しい顔をしているが、陽鞠のほうは忙しなく首や肩口を扇いでいる。
 部屋の中も窓は大きく開け放たれているが、陽鞠には暑そうだった。歯ブラシと歯磨き粉をしまい、お手洗いにも行くと、陽鞠は水道でタオルを濡らして帰ってきた。
 布団に寝転がると、足の上にタオルを被せる。これで少々足の火照りが収まったようだ。腹の上に羽毛布団を載せると、美乃に部屋の灯りを消すよう指図する。まだ立っていた美乃が、手を伸ばしてプルスイッチを操作した。今日は新月らしく、星は見えるものの部屋の中に差し込むような光はない。小さな衣擦れの音を立てて美乃が布団に潜り込んだ。
 しばし経って、暗く静かな部屋に小さな寝息が立ち始めた。

 僅かな物音に陽鞠は目を覚ました。
「どこ行くのよ」
 薄目を開け、すでに立ち上がり部屋を出ようとしていた美乃に、咎めるような声をかける。
「お手洗い」
 美乃は短く答えた。陽鞠はその答えに納得したようで、襖の隙間から覗く光から逃げるように、布団に潜る。くぐもった声でこう言った。
「あんたも年を取ったわね」
「こんな小さな音で起きるひまちゃんの方が、年取ったんじゃないかな!」
 べっと舌を出し、美乃は襖を叩きつけるように開けて部屋を出る。カチャンと小さな音がする。短い外出でも律儀に鍵をかけていったようだ。

続く

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posted by 新月 朔 at 01:04| Comment(0) | 白南風ドロップス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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