2017年07月17日

神さまのいる世界 第一章 信仰する者(後編)

 
 神さまのいる世界
     第一章  信仰する者(後編)
                         有音 紫苑

 青青しく、その腕を広げた名前も知らない大樹。渇きなど知らぬと言った風情でそれは葉を茂らせ、またあるものは滴り落ちんばかりに雫を湛えている。実を成す樹はそこにはなくて、ただ緑の静まり返った空間が横たわっている。以前見かけた鳥の影は、不思議とどこにも見当たらない。上を見上げて映る空の色は、しかし絶対的な硝子の厚みに阻まれているというのに。
 集落の奥地、神殿の更に奥、別殿へと繋がる廊下の大理石と、それを囲むように存在する異質な箱庭。神の住む庭として隔離され、大神官だけが立ち入ることを許され、また許す場所。けれどそんな不文律は彼女にとっては無いにも等しいのか、彼女は容易に僕を招き入れて、ここの空気はどうだと聞いて見せる。有角の、闇色の髪を背に流し、いつものように白の簡潔なワンピースを身に纏った少女は、正しく鳥の仮面を身に着けその瞳を覆い隠している。ただ、その透き通った湖のまなざしは確かに僕に向けられて、次いで硝子で区切られた空へと視線を遣る。
「神殿の部屋の中は、いささか香りが強すぎる。あの暗さは心を落ち着けるが、同時に心を貧しくするものでもあると私は思うよ。それに比べて、ここの空気はこの空の青さと同じほどには透いている。ここもまた、隔絶された空間だけれど、それでもあの部屋よりかは何倍も良い」
 つられて見上げた空はバケツで塗り潰したように一様の青で、途切れ途切れの雲が時折白く染め残しを作っている。いつも見る空で、見飽きた空だ。でもそれは、少女にとってはそうではない、空の色で。
 僕が黙ったままであることにしびれを切らしたのか、少女は不意に顔をこちらへ向け戻すと、心なしか、いや確実に何かに腹を据えかねた声色で、「それよりも、」と言葉を続ける。僕を真っ直ぐに見る鳥の仮面は儀式的なものであるとはいえその眼差しは鋭く、詰問されている気分を強める。ましてや他の誰でもなく、自身が信仰を傾けるその人、大神官である山都の視線であれば、僕がそれにまだ慣れないことも道理だった。
「どうしてお前がここにいるの。お前には、私と会ったことは忘れるようにと言い置いたはずだ」
「それに関しては絶対に聞かれるだろうとは思っていましたが――ヤマト様、そう仰った割には私が先日謁見した際、私を神官として登用することに積極的であったように見受けましたが?」
「それは――いや、それよりも、もう少し口調を砕いても構わん。気持ち悪い。前に会った時はもっと自分らしく口舌を振るっていただろう」
 少女は苦々しげにそう言って、ちょっと拗ねたように小首をかしげてみせる。儀式の際の超常的とさえ言える姿態は鳴りを潜めて、今はまるでただの少女みたいな物言いだ。僕の持つ、彼女への信仰心としてのなにかは彼女のそんな姿にもまるで心揺らぐことなく、同じ思いだけを抱き続けているのだけれど。
「・・・・・・僕の父親が、もともと神官なんです。だから、いずれ神官になることは決まっていました。それが早まっただけのことですよ」
「父親・・・・・・それにしても、お前が今幾つか知らないけれど、年若いお前が繰り上がる必要があるほど人手が切羽詰まっているという話も耳にした覚えがないが・・・・・・まあ、それはいいだろう。問題はその先だ」
 少女は一拍息を飲んで、それからまたいかにも不服といった声音で僕に言い放つ。
「どうして――どうしてお前が、私の付き人という扱いになるんだ。まだここにきて一週間も経っていないだろう? 普通なら本殿で雑用係がいいところのはずだ。いきなり別殿に来て、仮にも神の代理人という立場の私のお側付きになるだなんて、どう考えても階段を踏み飛ばしすぎだというのに」
「ああ、それに関しては――僕にもよくわからないのですよ。ただ、お前は年若くよく気が付くだろうから、大神官様の付き人となりなさいと。それに、付き人といったって同じ身分を冠されている人は他にも片手程はいますよ」
 現に僕は、今日に至るまではまともに少女の姿を拝むことも無かった。付き人とはいえ、複数人いるからにはそうしょっちゅう大神官の側付きとして控えているわけにもいかない。むしろより大神官のみに関わる雑務を任せられるというだけで、さながら専門科に振り分けられただけといった有り様だ。しかしそれでも、普通なら在り得ないほどにヤマト様との接見が許されていることは事実で、それだけでも僕は安寧の暮らしからここに身を置くほどの価値があったと言えるだろう。
 実際のところ、僕がヤマト様の付き人となったのに特別な理由があったわけではないのではないかと、僕はそう考えている。ただ、菫というこの土地で信頼された実力者の元にいたこと、父親のこと、そして僕の容姿が、僅かながらにもヤマト様に相似していること。墨を流した髪色と、あおの瞳、痩身の背丈。そんなものが相俟って、奇跡とも形容できない何かの誘導があったのだと思う。それを必然と宣うほどの豪傑さを生憎僕は持ち合わせていないが、感謝する神は存在したのだと思うほどには。その神を表象する少女に付き従う幸運を得たことで、僕はまたこの信仰を還元していくこととなる。
「・・・・・・そう。お前に問い質しても仕方のないことのようだ。神官たちの思惑が全て私に伝えられるわけでもないし、ここはそう楽しいところでもない。お前もいずれ飽きるだろうよ」
 少女は諦めたように溜息を一つこぼして、それから手近にあった綺麗な断面の切り株にちょんと腰掛ける。それは元々座るためにあるもののようで、少女はまた一息つくと軽く僕の方に手を振って見せた。
「え、隣に座ってもいいんですか?」
「阿呆。茶を淹れてこいということだ。折角私の庭に入れてやってるのに、それ以上客人を気取る気か、お前は」
「大神官様のわりに、随分と口の悪い・・・・・・はい、はい、今淹れてきます」
 途端につんざくような視線を仮面越しに受けて、僕は不承不承香炉の薫る室内へと戻る。今は誰もいない部屋は、薄暗くて仄かに橙色を宿して。改めて見ると本当に物が少ない。部屋の隅にある棚から普通に暮らしていては一年に一度も見ない高級物の茶葉と漆塗りの湯飲みを、少し考えてから二つ取り出して、お茶を淹れる準備をする。茶を蒸らす間に一瞬手持無沙汰になって、僕は少女が常は氷像のように座している空間の奥を見遣る。ふと、目に留まった白い布束が妙に気にかかって、僕は手を止めるとそちらへと足を向けた。物陰に隠すように、正面からは目につかない場所。見てみればそれはよく覚えのあるもので、こんなところに持っていたのかと忘れかけていた頭が素直に驚きを示す。
 一番上に置かれた白と、その下には原色の赤や青。色鮮やかな布とそこには見事な刺繍が施されて、その大きさは丁度少女の身の丈ほどの。いつか自分がこの手で届けた、そしてヤマト様と僕の邂逅を遂げさせた、あの菫の衣装だった。
 大切にしているのだと、わかる。菫が丹精を込めて縫い上げた裾の刺繍の部分に手で広げたような皺が僅かに残っていて、かの少女がきっと何度もそれを見ていたのだろうことを想起させた。祝祭のための晴れ着。少女自身がそれを纏い民衆の前に現れることは決してなくて、しかし少女はいつもうつくしい衣装を纏った自身の姿を瞼の裏に思い描いて、この暗く薫りの立ち込めた部屋でただ膝を抱えていたのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・」
 何も見なかったことにしているのが、少女にとって一番優しいのだろうか。だって現実は変わらなくて、少女は変わり映えもなく神として奉られ、神の言葉を伝え、信仰の表象となり続ける。僕もまた、その点では何も知らない民衆たちと本質は同じだ。少女を信仰し、その信仰があって少女を見ている。幾ら僕がこの立場を得て、少女と言葉を交わし、自身の思いを強めたとて、それは少女への信仰あってのものなのだから。
 僕が想っているのは、少女自身である以前に少女の持つ湖の瞳なのだから。
 だから僕は、そのまま踵を返すと温かく淹れたばかりのお茶を二つ、お盆に載せて少女の待つ閉ざされた庭へと取って返す。今はまだ、何も知らないのと同じなのだから、そうして少女と言葉を交わそう。無垢で残酷な労りの言葉よりも、無垢で無知なままの僕で、少女に会えればいい。この少女を助け出すことは、どうしたって叶わないだろうから。
 少女が、僕の信仰が、ヤマトが、囚われた籠の中のただのひとりのおんなのこであることを、おそらく僕はとっくに気付いていて。
 このときの僕は、気付いていながら目を逸らしてしまったのだった。

(第二章へと続く)

posted by 新月 朔 at 01:00| Comment(0) | 神さまのいる世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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