2015年11月07日

【新連載】マーメイドブラッド 前編    作:亀山真一


マーメイドブラッド
亀山真一
 T 合宿

昼休み、たまたま学食で一緒になった木(こ)南(なみ)沙(さ)綾(あや)は尋ねた。
「海(うみ)くん、今度の合宿どうする?」
きれいなこげ茶色の瞳がじっと俺を見つめる。長い髪を耳に掛けつつ無防備に鎖骨のラインをさらしてくるので俺は思わず顔をそむけた。
「合宿?」
「あれ、聞いてない? ウチのサークルって毎年夏休みに合宿に行くんだって。合宿って言っても中身は旅行とたいして変わらないし自由参加だから、どうしようかなって」
「そう」
「海くんはどうするの?」
木南が乗り出すことで近づく胸の谷間に、俺は一瞬だけ別のことを考えてしまった。
年下の女の子に名前で『くん付け』されるのってどうなんだろう? まあ、俺は浪人だから同期だし、男子高出身で女慣れしてないから気になるだけかもしれない。
「木南は行先、知ってる?」
「そこまではまだ。でも海辺なのは確か」
「……だろうな」
我がマリンスポーツ同好会が山に出掛けるわけがない。それくらい俺も察しが付く。
「俺はたぶん行かない、かな」
「どうして?」
正直に答える必要もないので、適当な理由をでっちあげる。
「父親と二人暮らしでさ、俺が消えると家の中が大変なことになる」
まあ、あながち嘘でもない。何と言っても我が家の台所は俺の城だ。掃除洗濯はなんとか折半を保っているが、俺が炊事をしなかった日はここ数年間でも数えるほどしかない。
「え、そういう理由? 二、三日の旅行くらい平気でしょ」
「そうかもしれないけど、ウチの父親もなかなか手強いから」
「でもすごいね。家事とかちゃんとやるんだ」
「そう?」
「うん、やばい。ジョシリョク負けちゃう」
たんに自分の面倒を見られるのが自分しかいないだけだけど。ちょっと得意になった俺だが、話はそこで終わってくれない。
「でもどうしよう? 海くんが行くなら行こうかと思ってたのに」
「え?」
「だって一年生で一番経験値が高いのって海くんじゃん。せっかく『ほぼ旅行』なら先輩に気兼ねなく遊びたいじゃない?」
「あ、そういうこと」
「どういうことだと思ってたの? 幸子(ゆきこ)も同じこと言ってたよ。それで海くんに聞いてみてって」
と彼女はもう一人の同期女子の名前を挙げて笑った。
「まあ、そういうことでもいいんだけどね」
「へ?」
「おっす。一緒していいか?」
どういうことだと聞く前に、同じくサークル仲間の三野(みつや)広司(こうじ)がやってきた。どことなくチャラい雰囲気の彼だが、茶髪はプールの塩素のせいだと言い張っている。返事の代わりに隣の椅子に置いたカバンをどけてやると、三野はトレーをテーブルに乗せながら俺と木南の顔を交互に見た。
「それとも……もしかして俺、お邪魔だった?」
「は?」
「全然。三野くんは合宿行く?」
木南は何食わぬ顔で彼にも話を振った。そう言えば彼女は三野のことは名字で呼んでいる。
「ああ、合宿か」
三野は既にその存在を知っていたようだ。ということは俺だけが出遅れていたらしい。
ちなみに俺と木南と三野、それに先程名前の挙がった堤本(つつもと)幸子を加えた四人でマリンスポーツ同好会一年生はフルメンバーとなる。
「俺は坂庭(さかば)が行くなら行くぞ」
「何で三野も俺次第なんだよ」
「だって一年で経験値が――」
「同じ理由かよ」
だいたい俺だって、マリンスポーツとなると少し波乗りに覚えがあるだけだ。
「その『覚え』が羨ましいよな。でも陸上部あがりが特技は水泳って何なん?」
「それは……」
「トラックをぐるぐる走り回ってる坂庭ってのが、あんまりイメージ付かないんだよな」
俺もそう思う。
「プールの水ってカルキ臭いから部活より趣味で海行って泳ぎたかったんだ。陸上にしたのは、なんとなく」
中学生の自分が陸上部に入ったのは人生イチの大失態だ。結局幽霊部員になるしかなかったあれは過去の汚点でしかない。
「まあいいけど」
何とか逃げられたようだ。木南がまた話を戻す。
「それより海くんも合宿行こうよ。みんな海くんが来たら行くって言ってるんだから」
「なんか予定あるのか? 坂庭は実家だし、バイトもガッツリはしてなかったよな」
「うーん。そういうのはないけど」
先程の理由を繰り返す前に三野が素っ頓狂な声を上げた。
「あ、まさか女か!」
「は?」
木南まで追随して、
「え、マジで?」
なんて聞いてくる。そうだと言ったら逃げられるだろうか? いや、逆に追究が厳しくなるだけだ。すぐボロが出る。
「えっと……その、お金ってどれくらい掛かるかな」
「あーそっちか。まあ、その辺は大丈夫じゃない? 学生企画の小旅行にも行けないようじゃ夏休みは越せねえぜ」
「うん、いや……ちょっと違うんだけど」
「海くんのくせに海行かないってどうなの?」
「名前は関係ないだろ、名前は」
この人たちには分からないだろうな、俺の懸念事項なんて。
おしゃべりに花を咲かせる二人の箸は止まったままだ。木南のアジフライ定食三百七十円、三野のエビ天丼三百四十五円也……俺は学食の底辺ポークカレー二百九十円を、食欲が失せる前にかき込んだ。



半ば強引に行くことになった合宿の詳細が決まった夜、俺は父にそのことを話した。合宿中、父は一人我が家に取り残されるわけだから彼の理解は必要である。
「ほう、合宿か」
聞きながら晩飯を頬張る父は、話が進むにつれ複雑な表情を示した。少々因縁のある行先を話すころには完全に箸が止まっていた。
「大丈夫だよ。二泊三日なんてすぐだし、久しぶりに海で思う存分泳げたら俺だって嬉しいし。こっちで色々準備してあるし父さんには迷惑かけない」
「……その間のメシは?」
その表情と発言がどうも似つかわしくないので茶化すことにした。
「自分の面倒くらい自分で見なさい。うるさいガキがいないんだから、たまにはパーッと外食でも出前でもすればいいじゃないか」
「え、ああそうだな」
父もニヤニヤしながら乗ってきた。
「久しぶりに寿司でもとるか。めったに食えないからなあ」
「……それ息子の前で言うなよ」
「はは、すまん」
と悪びれる様子もなく詫び、でもな、と今までさんざん聞かされてきたことを父は主張した。
「俺はお前が生まれる前は海の男だったんだぞ」
「知ってる。てか、息子の名前で自己主張するな」
彼は笑いながら生姜焼きを口に放り込んだ。一から十まで俺の管理下にある食事に父はウンザリしているのではないか。ふとした瞬間に思う。けれど、俺が気に掛ける筋合も父が文句を言う権利もない。
夕食を終えた父を風呂場に押し込んでから俺は食器の後片付けを始める。近頃の父は風呂嫌いだ。せっかく八年前に水回りの充実した物件を探し出して住みついたというに、今は広々とした浴槽に浸かろうともしない。
まったく、彼は無頓着なのか気遣い屋なのか分からない。
「風呂空いたぞー」
「相変わらず早いな。もう少しでこっち片付くから、そしたら入る」
全ての食器が水切りカゴに収まったところで俺は手を止めた。この続きは父の仕事になる。男の二人暮らしに家事の分担は必要不可欠だ。
「んじゃ、風呂場占領するよ」
「……」
返事がない、と思ったら父はごそごそと小箱を引っ張り出してきた。
「やる」
「へ?」
押し付けられたら開けるしかない。中身はゴールドの指輪だった。
「何? これ」
「お前の母さんの婚約指輪」
「……は?」

服を脱ぎ捨てた俺は本能の赴くままにシャワーの栓をひねる。水滴が額に降り注ぎ全身を伝っていく。
この瞬間は至福だ。
ビシャビシャと水が流れる音も耳に心地よい。昔はよくシャワーを流しっ放しにしてしまうこともあったが、水道代の集金に自分でも応対するようになってからは極力控えている。
ひとまず満足したところでシャワーヘッドを浴槽に放り込む。父はホントに使っていないらしく俺が後に入った際でも湯船は空っぽどころか水滴一つついていない。
水を溜めこむ間は入念に身体を洗う。『入念に』は、ある程度は時間稼ぎのためだ。半分ほど水が溜まったらもう我慢できずにバスソルトを投入。ザブンと身体を沈める。ちなみにこのバスソルトは試行錯誤の果てに生まれた俺の肌質にジャストフィットの代物で、宿泊先に個室風呂が付いているのならぜひとも合宿に持っていきたい一品だ。
胸元まで水位がせり上がってきたところで給水をストップ。あとは気の済むまで浸かっているだけだ。気が済む前に父の催促が飛んでくることも多々あるけど。これをせずに一日を終えられる父が信じられない。いや、これは母のせいなんだっけ。
「母さん……か」
俺は小指にはめた指輪を見つめる。小指にしか入らなかったあたりやはり母のモノなのだろう。たとえ二十年前だとしても父の薬指にはまるわけがない。
先程の父の言葉が蘇る。
――お前の話を聞いている内にちょっと昔を思い出してな、いや、行先が俺の故郷の近くだったもんで。別れた時に『母さんからお前に』って預かったものなんだ。お前ももう二十歳だし金の価値くらい分かるだろ。売ってもいいぞ。
売れるかアホ。
ゴールドなのは潮水に浸かっても錆びつかないようにと思ってのことだろう。海の男らしい配慮だ。口ぶりこそいつも通りの投げやりな感じだったが、さっきの父はかなり真面目な顔だった。それならば父の指輪もあるのかと尋ねると、また口調だけは飄々として答えた。
ああ、そっちは俺がお前の妹にあげちまった。だから俺とお揃いとか変なことは気にしなくていい。
俺の記憶の中には妹どころか母の顔も残っていない。父と俺の顔はあまり似ていないから、母親似なのだろうか? 妹はどうだろう? 父親似の女の子、はあまりに可哀そうだったので俺と似ているのかどうかだけ考えてみる。聞いた話によると一つ年下で、確か名前は――
「うーみーは いつまーで 風呂にーいーるー?」
童謡の替え歌が扉の向こうから聞こえてきた。父だ。
「飲んだな。飲んだだろ?」
俺は浴槽を飛び出した。バスタイムは終わりだ。
半分濡れたままリビングに戻ると父が日本酒を飲みながら鼻歌を歌っていた。相変わらず『うみ』である。
「よう、海。早かったな」
「父さんが急かしたんだろ」
「そうだっけ? 悪い悪い」
まだ飲み始めたばかりだろうに顔が赤い。元海の男とは思えぬアルコールの弱さを自覚している父は俺の前ではめったに酒を飲まない。が、飲むとなかなか面倒くさい。
「どうしたの?」
「ああ、海も飲むか?」
「俺はいいよ」
親の血を考えれば自分も酒に弱いことは想像がつく。
「何だよ、素っ気ないなあ。二十歳超えたんだから付き合えよ。息子と酒飲みながら語り合うのは父親の夢だぞ」
「そういう夢はまともに酒が飲めるようになってから語ろうか」
飲んでるじゃないか、と父が喚く。
「どうしたの?」
日本酒に見せかけた水をグラスに満たし話を聞く。聞いてやらないと収まるものも収まらない。
「海も二十歳か」
「そうだね」
「そりゃ俺も年を取るよな」
「何、昔を懐かしむモードに突入したわけ?」
「……合宿先、俺の地元なんだってな」
「らしいね」
「その指輪もってけ」
「は?」
「運命の再会の目印だ」
「何言ってるの? 酔ってるの? あ、酔ってるんだっけ」
「母さんは無理でも妹はいけるぞ」
俺はにべもなく切り返した。
「そんな、おとぎ話じゃないんだから」



部室に揃ったメンバーを見た時点では、誰が発案者か皆目見当もつかなかった。
「前夜祭よ、前夜祭。偶にはこういう夜も必要だわ」
目の前に座る美女が慣れた手つきで麻雀牌の山を築くのを見て、ああ彼女だったかと理解する。我がマリンスポーツ同好会の部長の高峰(たかみね)さんだ。
「今までなかなか一年生と絡めてなかったしね。幸子ちゃんが捕まらなかったのが残念」
「すまない、高峰は今アルコール以外の何かに酔っ払ってるんだ。粗相は大目に見てやってくれ」
「何よ? 貴島(きじま)くんなら合宿に辿り着くまでのあたしの気苦労知ってるでしょ」
「だから大目に見てやろうとは思っている」
左隣の貴島先輩はいち早く牌を積み終え、遅れをとっている俺の分まで手伝い始めた。右側の三野も手元には余裕があり、奴と俺の間に座る木南に話しかけた。
「ルール教えながらやろうか? 最初くらいは公開状態でも構わないし」
「うーん、でも悪いから何となく見てるよ」
と言って俺の手元を覗き込む。
「海くんは初心者?」
「アガリ役を覚えているかも怪しい」
「じゃあきっと海くん見てるのが一番面白いね」
何故そうなる?
「確かに、麻雀は結構ビギナーズラックが恐ろしいゲームだ」
貴島先輩はそう言ってまた手際よく点棒を配る。ちなみに、先輩陣は二人とも三年生だ。
「せっかくだから何か賭けましょ。お金はダメ。そうね、勝った人には美人のお姉さまがキスしてあげるわ」
「……」
一年生(おれたち)は顔を見合わせた。が、貴島さんは何食わぬ表情。
「高峰、それはお前しか得しない」
「やあね、ほっぺよ? 何なら、あたしか沙綾ちゃんか選べることにする?」
「先輩!」
真っ先に抗議の声を上げたのは三野だった。木南も当然難色を示し、高峰部長は次なる案を繰り出す。
「じゃあ罰ゲーム式で。負けた人は、恋人や好きな人を暴露する」
三野は尚も口を開きかけたが、こちらは墓穴を掘る前に頷いた。
「この場で一番ピュアなのは三野くんみたいね。ぜひあなたの思い人を聞き出してやるわ」
部長はニヤニヤしながらサイコロを振り、もう一度振って山を切り崩し始めた。
戦況は実に高峰さんの目論見通りに進んだ。
と言っても、彼女が勝ち続けているわけではない。直感型らしい高峰さんはたいして考えずにポンを連発し、その結果むしろ貴島さんのツモが増えて彼の手が進む。俺は貴島さんの予言通りビギナーズラックを当て、ひとまず負けることはなさそうなポジションまで点数を稼いだ。
「ふふ、三野くん追い詰められたわね」
「高峰さん、その台詞あなたが言っても説得力がないです」
しかし三野も負けていなかった。自分に親が回ってくると安い手ながら連荘を続ける。気付けば追い詰められていたのは高峰さんであった。
「……」
ずっとしゃべり続けだった高峰さんが黙り込む姿に、ルールを知らない木南でさえ状況を理解する。
「海くん」
彼女はなるべく小さな声で俺に話しかけた。
「わざと負けてあげることってできないの?」
「え?」
「だってあの罰ゲームは……女の子には、ね?」
「ああ」
言い出しっぺの高峰さんが撤回するわけにはいかない。いないと言い張るのも少々空気がまずくなる。恋人じゃなくて好きな人でもいいんだし、適当なことを言って逃れられるなら俺が負けるのは構わないが、
「俺は狙って振り込めるほどこのゲームに精通してない」
「そっか」
それができるのはどちらかと言えば三野だが、そんなこと考えるわけ――
「ロン!」
高峰さんが絶叫した。貴島さんがドラを捨てたところだった。
「見て見て! 見事な清一でしょ」
漢数字の書かれた牌がきれいに揃った結果、高峰さんの大逆転が決まり貴島さんは最下位に転落した。
「この状況で萬子を捨てるのは自殺行為ですよ。しかも何でわざわざ……」
三野が唖然として先輩を見る。しかし貴島さんは、雀牌を片付けながら満足そうに笑った。
「どうかしてたんだろうな」
「それで。ねえ、貴島くん」
少し自嘲した雰囲気はあるが、高峰さんはブレない。
「好きな人はいるの?」
「うーん。確信的に好きな人は、今はいないかな」
その言い方では、と考えていると彼は何故かこちらを向いた。
「ただ、気になってる奴ならいる」
……え?
「貴島くん好きな人いたの! え、誰?」
「だから好きじゃない。なあ?」
なあ、と言われても。彼の視線は――
「あ、あたしですか?」
隣に引っ付いていた木南が素っ頓狂な声を上げる。ああ、そりゃそうか。
貴島さんが黙って男前な微笑みを浮かべ、前夜祭は幕を閉じた。



木南沙綾の興奮は列車の中から始まっていた。
「きゃあ、海だよ。海! 海くん、見てよ!」
「俺のことなのか海のことなのか分からないんだけど」
車窓に広がる海はキラキラと輝き、俺の胸の鼓動も高まる。とは言っても木南のはしゃぎっぷりはなかなかのものである。
「だって本物は初めて見るんだもん。テンションあがっちゃって」
「え、初めて?」
彼女の発言には俺ならずとも驚く。なんせマリンスポーツ同好会である。よくこのサークルに入ったね、と先輩が感心するのも無理はない。
「そうですか? 逆に今まで縁のなかったものを選ぼうかなって。海くんだって陸上部だったんでしょ?」
「うっ」
その話には触れないでいただきたい。
「でも普通一回くらい行ったことあるでしょ」
「一度と言わず何度でも」
三野と堤本が突っ込み、
「そういう子がいると連れて来たかいがあるよね」
と高峰部長が満足げに頷いた。
合宿メンバーは各学年三、四人いる(四年生は諸々の都合で二人と少ない)が、皆勝手に遊びたい盛りもあって一年坊主の面倒を見てくれるのは高峰さんだけである。昨夜言っていた気苦労とはこういう所だろう。
「そう言えば部長、行先どうやって決めたんですか? 観光地って感じじゃないじゃないですか」
俺の質問に三野も乗ってきた。
「あ、それ俺も気になります。ていうか、何が目玉なのかなって」
「よくぞ聞いてくれました。うちらは海さえあればそれで満足ってことでわざわざシーズン中の観光地なんて行かないの。貸し切らなくてもプライベートなビーチと安くて食べ物がおいしい宿を求めてド田舎へ。そして今回の目玉は」
高峰部長はわざと言葉を切った。木南と堤本が振り向いたからだ。
「人魚伝説です!」
・・・。
この沈黙は俺たちのせいではない。都会に暮らすいい歳した大学生が人魚伝説ではしゃぐわけがない。高峰部長のせいでもない。向かいの席でトランプに興じている合宿担当の悪ノリに、彼女は付き合う他なかったのだ。事実、おかげで旅費だけはものすごく良心的なプランなのだ。そして俺たちは海と酒があれば三日だって騒げるマリンスポーツ同好会の大学生なのだ。
「まあ肝試しだったりビンゴ大会だったり、目玉なんて後付けさ」
高峰さんのフォローは正しいのだろう。
「人魚伝説って具体的に何なんですか?」
堤本の質問に、要らぬことをと思ったが、部長は答えを用意していたらしい。
「伝説っていうより目撃情報だね。最近のもバンバン見つかるあたりはさすがネット社会って感じ? 面白いのは、古い情報は『青い瞳でブロンド巻き髪』の人魚が近頃は『黒い瞳で流れるような黒髪』イコール、ストレートヘアになったところ」
それを聞いた俺は思わず反論してしまった。
「絶対嘘だろ。だって瞳の色が確認できるところまで近づけるんだったら、その目撃情報は伝説じゃなくて事実じゃん」
「確かに」
高峰部長はあっさり認め、女性陣も頷いた。しかし三野は首を傾げる。
「うんにゃ、『外人さんっぽい』人魚が『日本人的』になったってことじゃないか。目撃した人間側の感覚でそう変わったのかもしれないぜ」
「どういうこと?」
「つまりさ、目撃者が『人魚を見た、ちょっとない感じの美人だった』って言うだろ。それを聞いて昔なら『日本人離れした異人さん風』を、現代なら『今時珍しい純大和撫子』をイメージする。そこから尾ひれがつくってわけ」
「あーなるほど」
「じゃあ、いるかもね」
夢のある三野案にあっさり鞍替えされてしまった。と言っても電車の中で再び人魚が話題に上ることもなかったが。

トイレ休憩は大事な時間である。
個室に潜ってカギをかけるとカバンからペットボトルを取り出した。ぱっと見はスポーツドリンクに見えるその中身は秘密だ。そのまま使うのは危険というか変なので、さらにタオルを引っ張り出して液体を浸していく。ひたひたのタオルを使いながらアリバイ作りにトイレの水を流し、個室から抜け出す。と、ある先輩に声を掛けられた。
「坂庭、腹でも下したか?」
「え?」
どうやらトイレの度に個室に入るところを覚えられてしまったようだ。こういう時、女子の方が楽だと思う。が、覚えられたからには反論も難しくない。
「貴島さんこそ、緊張していらっしゃるんですか? 合宿中に木南を落とすつもりですか?」
「まさか」
笑顔で否定する。貴島さんはなかなか食えない男のようだ。
駅からはバスに乗り換え、更に辺鄙な街を目指す。先に宿に向かい、ある程度の荷物を預け、そして――海に到着!
ビーチと呼べる砂浜自体そんなに広くもないのだが、右手には自然な雰囲気の残る岩場が広がり、左手遠くに見つめると人工的な港らしきものが。なんだかいいとこ取りである。
「海だ!」
目の前に広がる水平線に、木南ならずとも叫ぶ十三人の大学生。観光地を避けた弊害でボードなどの『遊び道具』が少ないのが玉にキズだが、ほぼほぼプライベートビーチだ。七名の先輩陣は既に秩序などどこへやら。ホントに遊びに来たようだ(とすれば同期連中の、俺が行くなら……なんて無駄な心配だったろう)。残るは俺たち一年生と高峰部長、そして貴島先輩。
「ではでは。波乗り初心者の諸君にサーフボードの使い方を教えてしんぜよう」
と、若干たがが外れ始めた高峰部長。
「貴島くん、お手本役よろしく」
「うぃっす」
ふむ。彼の意味深な笑顔がなければ、むしろ高峰部長との仲が怪しい。まあ、俺には関係ないが。
「ああ、俺は勝手に泳いでるんでお気になさらず」
「坂庭?」
うずうずしていたのは先輩たちだけじゃない。俺だって、早く海に飛び込みたくて仕方がない。
「俺の専門は遠泳なんで」
ボードもシュノーケルもいらない。マリンスポーツにしたのは、プールでなくて海に行きたかったからなのだ。
俺は同期も先輩も捨て置いて、海に飛び込んだ。
寄せては返す波。
足元で動く砂。
適度に塩辛い水。
ああ、海なのだ。この身体が求めてやまない海なのだ。



気の済むまで泳ぐ・遊ぶ、というざっくりとしたプランで気の済んだ一行は宿に向かい、夕食の時間までに風呂に入る。海辺町に温泉宿はないわけで(あったら観光地化されているわけで)、俺としては自然に個室の風呂が使えるから好都合と思っていた。が、
「温泉水を使っているお風呂なら、ちょっと足を延ばせばあるの」
という合宿担当の入念なリサーチ。
「源泉じゃないならわざわざ足を延ばしてまで行かなくてもって気もしますけど。俺ちょっと泳ぎ疲れちゃったし宿の風呂で充分です」
苦しい言い訳かなと思ったが、周囲は納得する。
「坂庭くんホント泳いでたもんね」
「まあ、ちょっと休んでてよ」
すると、もう一人留守番に名乗りを上げた。
「じゃああたしも待機で。実は他の人と入る大風呂って苦手なんです」
木南沙綾であった。
自前のバスソルトを使った贅沢なバスタイムも、ワイワイガヤガヤ皆で温泉もどきよりは短かったらしい。部屋で一人横になると、それを見計らったかのように隣室から木南が訪ねてきた。
「海くん」
「何か用?」
「いや、特にはないけど。一人で待ってても退屈じゃない?」
そんなことない、と言うのも失礼か。答える前に木南は上がり込んでしまう。
「……木南」
「沙綾でいいよ。何?」
「何でもない」
木南が首を傾げると湿り気を帯びた髪がひらりと揺れた。湯上りに宿の浴衣って反則じゃないか。
「海くんはホントに海好きなんだね」
「え?」
「ずっと泳いでた」
「そうかな」
多分、傍から見ればそうだったろう。
「海くん、あの――」
コンコン、とノック。同好会メンバーではなく宿の方だった。
「お夕食の準備、よろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ。多分そろそろ皆も帰ってきます」
助かった。
「宿のご飯、この合宿の中でもかなり奮発してるんだって」
……わけではなかったようだ。
地元で獲れた新鮮な魚介類、刺身にてんぷらにとそのこだわりを見せている。確かに奮発した。奮発しすぎた。
「さすがに……ムリ」
「海くん?」
俺はその場から逃げ出した。

昼間見つけた岩場は潮が引いて程よく湿っていた。びしょ濡れで帰るわけにもいかないから丁度いい。
「海くん」
「木南」
急いで追ってきたのか木南は少しだけ息を荒げていた。
「沙綾でいいって」
「どうしたの?」
「どうしたのはこっちのセリフ。海くん、何でこんなところに」
「別に、お腹空いてないからご飯はいいかなって」
散々泳ぎ続けていた俺を見ている木南は怪訝な顔で返す。
「で、お腹減らすためにもうひと泳ぎするの?」
「ああ、それもいいな」
見つかったのをいいことにざぶざぶと海に入る。足が海水に触れると心地よい安心感が広がった。
「木南ってどうしても食べられないものってある? それも気持ちの問題で」
「は、え? 何の話?」
岩場に立つ彼女のシルエットは月明かりにくっきりと浮かび上がっていた。
「変な話だけど、俺は海のものがダメなんだ。魚もそうだしエビとかイカとか貝も全部。旅先ってやっぱ皆その土地のモノを食べようとするじゃん? だから海辺の町ってところで最初からちょっと警戒しててさ。いや、自分が食べなきゃいい話だと思ってたんだけど、ああもドーンと魚料理を並べられるとなあ、見ただけで拒否反応が……って、やっぱ変だよな」
自分でも聞き苦しいと思う話だ。短い沈黙の後、木南は静かに口を開いた。
「あたしも生け簀料理とかダメなんだよね」
「は?」
「動物園とか牧場とか行くと急にお肉食べられなくなったり……生きてる姿を見ると急に可哀そうになっちゃうの。今まで平然と食べといて何様だって感じだけど」
違う。根本的に間違っている。可哀そうとかそういうレベルじゃないのだ。
「だから、変ではないよ? 一緒だよ」
「一緒にするな!」
反射的に大声を出していた。
「えっと……ごめ」
後ずさる木南の姿。そしてスコンと落っこちた。
「きゃっ」
「だ、大丈夫?」
湿った岩場は足を滑らせやすい。
「大丈夫だから、ちょっと待ってくれない?」
「ごめん……」
転んだ拍子に水たまりに片身を突っ込んでしまっていた。彼女が浴びた海水の雫が、月光に反射してきらめいている。
「帰ろうか」
差し出した俺の手を、逆に木南が引き寄せた。
「何? 木南」
「いや、えっと……沙綾でいいよ。何度も言ってるけど」
「じゃあ沙綾。何?」
木南は、いや、沙綾は言葉ではなく行動で示した。俺を引き戻した彼女は首元に抱き着きそのまま俺の唇に吸いついたのだ。
それは求めるだけの一方的なキスだった。
応えることも引き離すこともできず、俺は彼女の要求が終わるのを待っていた。やがて俺の反応がないことで、沙綾は瞑っていた目を開いた。こげ茶色の瞳が俺に問いかける。
どうして?
どうしてって聞かれてもなあ。
思いのほか冷めている自分に気付き、どう答えるべきか迷っていると先に彼女の方が飛び退いて言い訳を始めた。
「ごめんなさい急に。でもあたし、ずっと海くんのこと気になってたの。みんなと一緒に笑ってる時も一線引いてるっていうかどこか影があるっていうか。だから、海くんに何かあるんなら……助けたり支えたりしてあげたいなって」
「そう。それで?」
「え?」
「だから、その助けたり支えたりしたいって気持ちと今のキスとの間にどういう関係があるの?」
「だ、だから……」
我ながら意地悪な質問である。
「気になって俺を見ているうちに俺に性的魅力を感じた。それで思わずキスをした。そういうことだよね?」
「そ、そんな言い方」
「言い方なんてどうでもいい。俺は今事実確認をしているんだ」
沙綾は黙ったまま俯いた。それが頷いたように見えなくもなかったので、肯定と受け取ることにした。
「不躾な言い方を続けるけど、俺だって沙綾に性的魅力は感じる。キスされたことだって嫌か嬉しいかと聞かれたら嬉しい。でも、それと気持ちの部分は別物なんだよ。俺は精神的に支えてほしいと思うほどあんたを頼ってないし頼りたいとも思わない。今の言い合いだって何が俺の癇に障ったのか説明する気にはなれない。それは別に男のプライドとかそういう問題じゃなくて今現在それほど俺の気持ちが沙綾に向いてないからなの」
「……嫌いじゃないけど好きでもないってやつ?」
何故そうなるのだ?
「例えばさ」
容赦のない言葉が、勝手に口から溢れてきた。
「これがもっとありふれた状況での告白だったとするよ? 沙綾が俺に『好きです。付き合ってください』って言ったとするよ。だとしたら俺の答えは『あんたのこと、好きかまだ分からないんだけどとりあえず付き合ってみようか?』だね。なんか高校生みたいだけど、俺は男子校で恋愛と縁がなかったからその辺は大目に見てよ。つまり言いたかったのは、沙綾のことは好きとか嫌いとか以前の状態なんだ。付き合うっていうのも、たぶん行動が先行するんだよ。あ、行動って別にそこでセックスに走るほど俺は短絡的じゃないから安心して。ただ沙綾が俺を好きなことが前提なんだから、あんたが嫌がらない範囲で手を繋ぐとか、それこそキスするとかはあるわけだよね? そういう行動で初めて俺はあんたに意識が向くわけ。それで好きになるかどうかは俺にも分からないけどな」
ああ、どうして俺は彼女に本心をぶちまけているんだろう? 好きとか嫌いとか以前の相手なのに。
「で、沙綾は俺に告白するの? 好きです、付き合ってくださいって。今のところ振られはしないよ。俺はあんたに性的魅力を感じているわけだから」
するわけないよな。こんなメッタメタに切り捨てといて。
「好きです。付き合ってください」
え?
「だって海くん、嘘はなしで全部話してくれたみたいだし、行動が先行してもあたしの嫌がることはしないって言ってくれたんだし、あたしを好きになってくれる可能性はあるんでしょ? だったら頑張る」
俺を見上げた沙綾の頬はキラキラ光っていた。それが涙か海水かは俺には分からない。舐めてみたところでどちらもしょっぱい。
「返事は?」
「じゃあ、とりあえず付き合ってみようか?」
沙綾は再び俺にキスをした。
今度は優しく柔らかいキス。求めるのではなく与えるようなキスだった。
俺は目を閉じて他の感覚を研ぎ澄ました。
ザザー
ザザー
ザザー
ここが海であることは正解だった。波の音、潮の香り。それらは俺の心を落ち着けていく。そして俺に触れる沙綾。
ザザー
ザザー
ザザー
そうか。俺だって誰かに少しはもたれたいのだ。自分を一人で抱え込むのはもう限界に近かった。
俺は彼女に応えはじめた。
優しく触れるだけのキスが少しずつ濃く甘いものに変わっていく。
ザザー
ザザー
プハーッ
その音はかすかではあったが確実に俺の耳に届いた。大きく息継ぎをする音。
「誰かいる?」
「え?」
人影は確かにあった。そしてすぐに水の中に消えた。
「おい!」
「人魚」
「え?」
「今の人魚よ。きっと」
「何言ってんだ沙綾。人魚があんな間抜けな息継ぎするわけないじゃないか」
「え、突っ込むのそこ?」
「とにかく人魚なわけがない」
俺はすぐさま水の中まで追いかけた。人影は深く深く潜っていく。速い。
俺に泳ぎで勝る人間なんていないと思っていたのに。
相手は――
《ちょっと、どこまで追いかけてくる気?》
水中なのにはっきりと声が届いた。
《普通の人間ならとっくに息が切れてるはずよ》
そのシルエットは父から聞いた通りの人魚だった。上半身は人間で、下半身は尾びれ。おとぎ話の挿絵のように乳房を貝殻で隠してなんかいない。それが自然の姿なのだ。髪は黒く艶やかで、月明かりに照らされた瞳も漆黒。それより何より俺の目を引いたのは、不格好に親指にはまらざるを得なかったゴールドの指輪だった。
《そうか。……あんた、リク?》
《どうして私の名前……ていうか、どうしてコトバ》
狼狽える彼女をぎゅっと抱き寄せた。
《俺はウミ。たぶん……あんたと同じなんだ》
《……じゃあ、あなたは》
ペンダントにしてかけていた揃いの指輪が、水中にふわりと漂っていた。
《お兄ちゃん?》

U 再会

俺の妹は人魚だ。
いや、これでは少し語弊がある。俺と一つ下の妹は同じ人間の父と同じ人魚の母との間に生まれた。何の因果か俺は人間の、妹は人魚の容姿で。それでも俺と妹の身体的な機能はほぼ同じようで、父と陸上で暮らす俺は身体が乾くと気分が悪くなり、母と海底で暮らす妹は日に数度は水面を割って肺呼吸しなければ息苦しくなる。俺は人間の中で比べればダントツに泳ぎが上手いが、その俺に追いつかれたあたり妹は人魚の中じゃとろい方なんだろう。
そんな俺たちは顔を合わせることなく育った。互いの存在や出生の秘密は身体の不思議と共に父母から明かされていたのだが、父が幼い俺を連れて海を離れ、都会で暮らすようになったいきさつは聞いていない。他にも疑問は山ほどあったが尋ねることはできないままに俺は大人になった。
そして俺たちは再会を果たした。
《お兄ちゃん? ホントにお兄ちゃんなのね!》
《他にありえないだろ。人間と人魚のアイノコなんてなかなかいないんだから》
自分でもどうやっているのか分からないが、俺は水中で彼女と言葉を交わすことができた。エラ呼吸なのか皮膚呼吸なのか水中でも息苦しくはない。
《そもそも自分のことじゃなければアイノコだってことすら信じられないんだけど》
《そっか、お兄ちゃんの方は秘密なのね。あたしは周りにもバレバレだから》
《こっちじゃ存在自体が伝説だからな》
人間が人魚のことを知らなくても、人魚は人間のことを知っている。あまり良く思われてはいないらしいけど。
《でもどうして……こんなところに? お兄ちゃんはお父さんと一緒に遠くの街へ行ったんでしょ?》
《それはサークルで偶々……やばい》
木南、いや、沙綾のことを忘れていた。
《連れがいるんだ。こんなところで話し込んでいたら怪しまれる》
《怪しまれる?》
《人魚の妹と会っていました、なんて言えないだろ》
《そういうもの?》
《とにかく戻らないと》
水面を目指そうとすると、待ってと彼女は俺の腕を掴む。
《また、会える?》
俺だって会いたい、そう思った。
《会おう》
《いつ?》
《……明日にでも》
その先じゃいつになるか分からない。俺たちは再会を誓った。

木南沙綾はずっと岸辺で狼狽えていたらしい。俺の姿を見つけると安堵の笑顔と共に駆け寄ってきた。
「海くん」
「沙綾」
彼女が何か話し出す前に、俺はその両肩を掴み、初めてしっかりと沙綾の目を見た。
「あんたを信じることにするからさ、ちょっと手伝ってくれないか?」
「え?」
あれだけ言った相手に対して、妹に会った途端この通り。でも、リクに会うためには沙綾の助けが必要である。
俺は自分がこの町で生まれたこと、妹がおり今もこの町にいること、偶然にも再会の手段を得たことを話した。但し俺と彼女が人魚のアイノコであることは言わない。言ったところで簡単に呑み込める話でもない。
「どうしてももう一度きちんと会って話がしたい。ちょっと……訳ありで、この機会を逃したらいつになるか分からないんだ」
父がこの地を離れたのにもそれなりの理由があるはずだ。何も知らない俺がおいそれと戻ってきて良いものなのか判断がつかない。酒の力で送り出したくらいだし。
「だから、明日うまく抜け出す方法を考えたいんだ。一番簡単なのは仮病を使って寝込んじまうことだけど、さっきまで俺が人一倍元気に泳いでたのはみんな見てるからさ」
逆に抜け出してしまえばこっちのものだ。マリンスポーツ同好会は自由人の集まり、一日だって放置される。
「なら簡単じゃない。今だって二人で抜け出してるようなものなんだし、明日も同じような感じで」
「逢い引きか」
「言い方。それで勘繰られたところで、本当のことなんだからいいでしょ?」
ちょっと強引にアプローチしてきた沙綾だ。冷やかされるくらいの方が、気分がいいのかもしれない。
「その代り、あたしも妹さんに会わせて」
「ん?」
「だって興味あるもん。海くんの妹」
「訳ありだって言ったばかりだよな?」
「でも、あたしを信じるとも言ったばかりじゃない?」
沙綾の目がもう少し真剣なら考えたかもしれない。けれど彼女の提案は好奇心から来たものだ。
「ダメ、俺は沙綾を信用はするけど信頼はしてない。この違い、分かる?」
俺の気持ちが向いてないことをさんざん聞かされた沙綾である。少々口を尖らせながらも、彼女は頷いた。
「じゃあ今回は信頼を勝ち取るために譲るわ」
「ありがとう」
少し迷いながらも俺は沙綾の頬にキスをした。それを受けて顔を赤らめた彼女がコクリと頷く。ということは、きっとこの行動は正解だったのだろう。
「戻ろうか。もうみんな帰ってきてるよ」
「晩飯……どうしようかな?」
人魚の息子だから魚を食う気になれません、と言うのもおかしな話だ。
「むしろもう食べ始めてるかもよ。お前らどこ行ってたんだ答えるまで食わせないぞ、とか三野くんあたり言い出しそう」
「その方がありがたい」
「逆にみんなが帰ってくる前だったらバタンキューしたことにして狸寝入りを決めこめるんじゃない?」
なるほど、明日はそうしよう。意外と沙綾は頭が回るようだ。



沙綾のおかげもあって、俺はリクに会いに行くことができた。
水中では立ち話(泳ぎ話?)をしている感じが落ち着かないので、海側からしか回れないような岸壁に移動し腰を据える。リクの方も水面から顔を出すが、事実上の上裸は、水から出てしまうとちょっと生々しい。俺は持っていた防水のビニールバックから自分のティーシャツを取り出し彼女に渡した。
「変なの」
「いいから着てくれ」
ちなみに、岩場に腰かけて歌う人魚の姿はおとぎ話の嘘だ。こんな動作が出来るのは半分陸上仕様のリクくらいである。
「まあ、自分たちから陸に近づくことはまずないから困らないけど。むしろみんなと違っちゃって困るのは見た目よね」
「というと?」
「黒髪と黒い瞳はお父さん譲りなの。生まれた時から浮きまくりよ」
「じゃあ基本的に人魚は外人さん仕様なのか」
どうやら目撃情報もあながち嘘ではないようだ。逆に三野の推理は間違いだったということである。毎日水面へ上がる必要のあるリクが一番見つかりやすいだろうし。
「俺も父親譲りで助かったな。青い瞳にブロンドじゃ、それだけでいじめられていたかもしれない」
「でも顔立ちはお母さんそっくりよ」
「そうなんだ。なあ、母さんは今どうしてる?」
「死んじゃった」
リクはあっさりと答えた。
「え?」
「何驚いてるの?」
「いや、だって……」
「全然おかしくないわ。人魚の方が人間より寿命がちょっと短いもの。お兄ちゃんは二十歳でようやく大人になった頃だろうけど、あたしは十九で普通だったらもう子供がいる年齢。アイノコの相手してくれる奇特な男がいないから独り身だけど」
聞いた感じと照らし合わせると人生五十年、十五で元服、戦国時代くらいの感覚で丁度いいかもしれない。
「お父さんは? そっちはまだ生きてるんでしょ?」
「ピンピンしてるよ。今は普通のサラリーマン」
「さらりーまん……人間の仕事はよく分からないの。お母さんと出会った頃は漁師だったのよね。漁師なら分かるわ」
「……ああ」
「ん?」
漠然と『海の男』ならまだいいのだが、具体的に『漁師』と言われるとどうも俺は拒絶反応を起こす。
「なあ、漁師って人魚にとって天敵じゃないか」
「そうかな?」
「だって仲間が捕まるだろ?」
「え? 漁師に捕まるようなヘマする人魚はまずいないよ」
「でも、海の仲間じゃないか」
「はい?」
リクが眉を寄せる。どうやら俺と彼女の間で齟齬が生まれているみたいだ。
「海の生き物みんなに仲間意識持ってるわけじゃないんだから。あたしだって魚食べるし」
「え、リクって魚食べるの?」
俺が海のモノは同族意識や共食い感覚があって食べられないことを話すと、リクは思い切り笑い飛ばした。
「何それ意味わからない」
「だって」
「だってお兄ちゃん陸の動物は食べるでしょ? 同じことよ。海の中にも食物連鎖はあって大きい魚は小さい魚を食べるの」
「……それもそうだな」
考えてみれば当たり前である。
「父さんも指摘してくれれば、二十年間ほとんど魚介類の食えない生活を強いられることもなかったのに」
「まあ、お父さんは息子に言われたら指摘し辛かったかもね」
「思い込みって怖いな」
この分だと色々と認識の違いが出てきそうだ。
「ねえ、せっかくだからもっとお兄ちゃんの話が聞きたいな」
リクがグッと身を乗り出して尋ねてくる。
「お兄ちゃんはどうしてここに来たの? 誰かと一緒なのよね?」
「ああ、大学のサークル……って言っても分かりにくいか。まあ、簡単に言えば海で遊ぶのが好きな奴らとちょっと羽を伸ばしに来たんだ。で、リクを見つけたからうまく抜け出してここにいる」
「それじゃお友達と一緒だったんじゃない! 抜け出しちゃっていいの?」
「別にサークル連中はそれぞれに楽しんでるから問題ない」
「そんな、なんかもったいないよ」
「何が?」
「せっかくみんなと対等でいられるのに」
「……ああ」
きっとリクの場合はいつだって特別視されてしまうのだ。お前は違うと。でも、それは同じである。
「対等……なんかじゃないよ」
「え?」
「俺はいつボロ出さないかって、ずっとヒヤヒヤしながら生活してるんだ。そのせいか随分こましゃくれた話し方を身に付けたなと自分でも思う」
バレている分堂々と振舞えるリクが羨ましい。
「そりゃ人魚とアイノコだって疑う奴はいない。でも、何か違うって勘繰られたことは数えきれない。沙綾だって――」
むしろ彼女はその典型だ。だから俺はうっとうしく思ったのだ。
「サアヤ?」
「俺の彼女……って言えるような仲にはまだなれてないんだけど。昨日、リクを見つけた海岸で告白されたところ」
「キャ、そんなロマンチックな現場に出くわしちゃってたの?」
リクの声が裏返る。女が色恋に敏感になるのは人間も人魚も変わらないようだ。
「大丈夫? あたし邪魔しちゃってない?」
そう聞かれると、ドンピシャで邪魔をした。が、特に気にしちゃいない。
「リクがいなくても結果は大して変わらなかったと思うよ。俺が、女の子の扱い方なんて全然分からないんだから」
中学高校と男子校で、母親と妹は遙か海の底で、周りには男しかいなかった。
「えー、じゃあ詳しく聞かせて。相談相手になってあげるから」
「どうせリクだって経験ないんだろ。誰もアイノコの相手をしてくれないって聞いたばかりだ」
言われて彼女は口を尖らせる。
「そんなこと言ってたらすぐフラれますからね!」
「はは、そりゃ気を付けないと。意外といい子だって分かってきたところだから」
笑いながら俺は初めての感情に気が付いた。誰かを愛おしいと思う感情。
「なんかこういうのっていいな」
「ん?」
「こんな気兼ねせずに話せる相手って初めてだし」
リクがニコッと笑う。
「サアヤさんだってきちんと向き合えばそうなれるよ。あたしもね、一人だけいるの。親友と呼べる子が」
「できるかな」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんなら、きっと」
リクが俺の手を取る。ドキリとする。
いや、別に恋じゃない。ずっと会ってなかった妹だ。可愛いと思うのは当たり前じゃないか。
その時、小さな振動を感じた。ケータイのバイブレーション。
「あっと、ごめん」
俺は防水された手荷物からそれを取り出した。
「もしもし、沙綾? 何か問題?」
《そういうわけじゃないんだけどさ……宴もたけなわ、かなって》
「はい?」
《ひとしきり話せたなら、あたしもちょっとくらいデートらしいことしてほしいなって》
「ああ」
二人で抜け出して一人で待ちぼうけ食らっているのだ。それくらい要求する権利が彼女にはある。
「そうだな、お昼まだ? 一緒に食べようか?」
《うん――》
トントン、とリクが俺の肩を叩く。
「ちょっと待って……何?」
「それ、話しているのは彼女さん?」
「ああ」
彼女は驚くべき提案を口にした。
「こっちに呼び出したら?」
「え?」
「この秘密をバラしちゃえばヒヤヒヤする必要はないでしょ? あたしと会って説明するのが一番伝わると思う」
「でも」
「お兄ちゃんの彼女なら信用するよ」
「だとしても。沙綾をここまで泳がせるわけにはいかないから、もう少し陸から近づきやすい場所に移らなきゃいけなくなる。他の人に見つかるリスクも上がるんだぞ」
「大丈夫よ」
リクがニッと微笑む。
「……いいんだな?」
「うん」
「分かった……もしもし、沙綾?」
俺は初めて、自分の出生を他人に話すことにした。

当然ながら沙綾は驚いた。が、それ以上に俺が驚かされるほどあっさりと納得した。
「海くんには人魚の妹がいたのね」
「正確にはあたしもお兄ちゃんもアイノコよ」
「そりゃ秘密にするわ。世間に見つかったら見世物小屋か研究所行きだよ」
彼女はまじまじとリクを見つめる。そこに好奇が混じってしまうのは仕方ないが、嫌な視線ではなかった。
「何でそんな簡単に信じるんだよ」
「だって目の前にいるじゃない。それに、あたしは昨日の夜もリクちゃんのこと見てるの」
「リクちゃんって……」
「いいじゃん、海くんの一つ下ってことはあたしと同い年でしょ?」
ねえ、と二人が顔を見合わせる。女の子同士というのは馴れ合うのが早い。
「あ、でもあたしは誕生日が来てないからむしろ一番下だ。まだ十八歳」
「へえ、サアヤちゃんの誕生日、いつ?」
「九月十四日」
「もうすぐじゃない」
そしてリクは何故か俺を見上げる。
「何だよ?」
「覚えた?」
「はい?」
「彼女の誕生日、覚えた?」
「リクちゃんいいこと言う!」
沙綾も俺を見上げる。
「く、九月十四日」
よし、とまた二人で顔を見合わせる。
「なあ、人魚の恋愛もこんな面倒くさいの?」
「人魚の恋愛はもーっと大変よ。だからお母さんと恋ができたお父さんは絶対いい男だってあたし信じてるの」
父もだいぶ面倒くさい男だが、いい男だとはとても思えない。それが二十年前だとしても。
「海くんって結構ドライよね。カッコつけてるだけならやめた方がいいよ」
「大きなお世話だ」
ふふふ、と俺たちのやり取りを見てリクが笑う。
「良かった。お兄ちゃん、サアヤちゃんはすごくいい人だから大事にしてあげてね」
「な、何で妹にそんなこと言われなきゃならないんだ!」
「お兄ちゃん可愛い」
「海くん可愛い」
三度、顔を見合わせる。完全に二人のペースである。
「ねえリクちゃん、もっと人魚のこと教えて。あたしに教えてもいい範囲で」
「別に秘密にしなきゃいけないことなんてないよ。人間に関わりたくない人魚が多数派だからあまり知られないだけなの」
リクは人魚伝説の嘘を片っ端から明かしていく。俺が知っている物も知らない物もあったが、人魚が何を食べているのかについてはかなりニヤニヤしながら沙綾に教えてくれる。
「何それ、海くんバカみたいじゃん」
「バカなのよ、お兄ちゃんは」
きっと帰ったら父親にもそんな顔をされるのだろう。
「じゃあ今日はちゃんとご飯食べられるね。ここのお魚本当に美味しかったから、食べなきゃ損だよ」
「……トライしてみます」
偏食はそう簡単に治るものではないが、俺の場合は意識の問題である。きっと魚もおいしいのだろう。
話は尽きないが時間は尽きていく。沙綾は、最後に兄妹水入らずにしてくれたのだろう。時間差で戻ってカムフラージュをカムフラージュすると言って先に帰った。
別れは海の中がいい。
《また会えるのかしら?》
《分からないけど、きっと会いに行くよ》
《じゃあ待ってる》
ふとリクは父の指輪に、親指で輝くそれに目をやった。
《お兄ちゃんはお母さんの指輪を受け取ってここに来たのよね》
《え、ああ》
《じゃあ、きっとまた導いてくれるわ》
《かもな》
《ねえ、もう一度交換しない?》
《へ?》
《お母さんとお父さんみたいに》
言うが早いかリクは指輪を外して俺の手を取ると、サイズの合いそうな指にそれを収めた。そしてニコリと微笑む。
《左手の、薬指って……》
《あ、何か意味があるんだっけ?》
《分かってなかったのか!》
エンゲージリングは人間の勝手なシステムだ。二十年前に父もこうして苦笑したのかもしれない。
《じゃあ、俺からも》
首からペンダントを外し、思い立ってチェーンからも外してリクの指にはめてやった。
薬指で、ピッタリだった。
《これは間違いないな》
《え?》
《また、会えるさ》
俺たちはもう一度再会を誓った。



「よう坂庭、お前いったい昨日はどこに行ってたんだ?」
合宿の帰りに話しかけてきたのは貴島先輩である。
「木南も一緒だったみたいだけど」
「……何か問題ですか?」
やはりとも言い難いが先輩は沙綾の動向を気にしていたようだ。ちょっと面倒くさいが、素直にカムフラージュに引っかかってくれたなら問題ない。
「大問題だろ。合宿は団体行動が基本だ」
「団体行動が出来ない人なんてたくさんいるじゃないですか」
実際、ウチの部には多いのだ。それも時間に遅れる・道に迷うといった悪意のない天然から勝手にフラフラする確信犯まで幅広い。
「貴島さんだって、俺と沙綾が一緒だったと言うならそれを見ていた確信犯ですよね?」
実際は一緒ではなかったのだからハッタリである。それより彼なら「沙綾」という呼び方に反応して論点がずれていくと――
「ああ、見ていた」
思ったのは淡い期待にすぎなかった。
「立ち話もなんだからさ、ちょっと腰落ち着けようや」
彼は薄気味悪い笑みを浮かべ、近くのチェーン喫茶を示した。店内は比較的空いている。コーヒー一杯二〇〇円也。
「坂庭は見失ったが、同じタイミングで抜け出した木南がずっと一人でいるもんでなんか変だと思ったんだ。明らかに時間を潰している感じだったし」
「……」
「しばらくして木南が電話を掛けて、動き出した。ちょっと怪しかったからあまり紳士的ではないけど後をつけさせてもらったんだ」
「あまり紳士的ではない、だ?」
その前からつけてたんじゃないか。とんだ外道である。
「ちょっと信じられないものを見たよ」
「……何を?」
貴島先輩は――いや、こんな男を先輩と称する必要もない。貴島は質問に答えなかった。ニタニタとコーヒーを啜るばかりである。
彼が見たのが俺と沙綾の逢引き現場レベルであれば何の問題もないが、この表情でそれはないだろう。リクを見ている。そうなると彼女が人魚であることに気付いているか否か。気付いているなら相当近くにいたことになる。沙綾のドジ。
「貴島さんの目的は?」
「ズバリ聞くね」
「聞かないと対処しようがないじゃないですか」
「やっぱりお前は気に食わない」
貴島はコーヒーを卓上に置き、軽く腰を浮かせて姿勢を直す。そんないちいちもったいぶるな。
「最初は木南だったけど、あの子も可愛いな」
そりゃどうも俺の妹です、なんて言えるわけがない。
「誰のことですか?」
「俺にカードを出し切らせる気だな、いいだろう」
そう言って木島は自信たっぷりにケータイを取り出した。そしてちょっと信じられない写真を突きつけたのである。
「この子」
「……こんなもの、いつ?」
間近で撮ったとしか思えない、完全に尾びれまで写ったリクの写真である。
「坂庭の方が先に引っかかってどうするんだ。この写真だと逆にお前はしらばっくれられるのに」
「!」
いや、そんなことをしても仕方がない。俺にリクを切り捨てるという選択肢はない。
「いつかと聞かれたら昨日の夜だ。お前が部屋の風呂にこもってた頃な。団体行動のできない確信犯はダメ元で証拠を押さえに行ったんだが、まさかこんなにうまくいくとはね」
リクはずっと海底に隠れていられない。父の血を引いている彼女は必ず水面に顔を出すタイミングが来る。加えて、俺と沙綾に会った直後だ。他の時ならともかく人間に対して無警戒になっていてもおかしくない。
「この子、お前の何なんだ?」
「……知らない」
「今更それで通じると思ってんの?」
思っているわけではない。が、通じなくてもいい。
「知らないったら知らない」
「俺だってこの写真が世間に通じるとは思ってないけど、お前に通じればそれでいいと思ってるんだ」
「なら俺も知らないと言い続けるまでです」
これで貴島に、俺はリクを切らないと宣言したことになる。
「気に入らないな。そこまでこの子が大事なら――」
ほら来た。どうせリクは遙か地方の海にいるのだ。最初から目的は沙綾に決まっている。
「彼女の方に裏切ってもらおうか」
「構いませんよ」
「え?」
あっさり言い切ったことに相手は面食らったに違いない。ここが反撃のタイミングだ。
「元々俺は沙綾を信頼してなかったんで」
三人でいる現場を見ている貴島からすれば予想外の言葉だろう。
「ただし沙綾は俺の信頼を勝ち取ろうとしてましたからね。俺が切ったところで先輩に動かせますかね」
後は沙綾を信用するしかない。俺はコーヒーを飲み干して、笑ってみせた。

しばらくして、沙綾から電話が来た。貴島が沙綾に何を言ってきたか、彼女がそれに何と答えたか、どう探ろうか考えていたタイミングである。
《海くん全然連絡くれないから、ちょっと心配になってきちゃったんだけど》
「ごめん。俺は自分から仕掛けられるタイプじゃなかったみたいだ」
《え? そんなの直球勝負でいいよ。別にサプライズとか期待してないし》
「……サプライズ?」
《もしかして海くん、あたしの誕生日のこと忘れてた?》
「誕生日?」
すっかり忘れていた。というよりは、そんなことを気にする余裕はないのだ。
《しっかりしてよね。リクちゃんにも言われてるでしょ》
「なあ。その、リクのこと聞かれなかったのか?」
《聞かれるって誰に?》
とぼけているのだろうか。俺は、沙綾がどれくらい信じるに値する人間なのか考える。
《誰にも聞かれるはずないでしょ》
「いや、でも……貴島」
《貴島さん?》
名前を出しても沙綾の調子は変わらなかった。
状況を説明するべきか。貴島が沙綾に声を掛ける前ならば、釘を刺しておくのも悪くはない。
《そう言えば貴島先輩なら》
と思った途端、沙綾が先に話し出した。
「何?」
《あたしが海くんにとって彼女なのかって聞かれた。笑顔でイエスって言うのもありだけど、そこは否定には聞こえない感じで濁しといたよ》
「あっそう」
《何よその気のない返事は》
貴島はもうリクのことはいいのだろうか。いや、だとしても俺の中で奴は完全に外道である。沙綾にうまくリクのことをしゃべらせ、それを指摘して俺への罪悪感をあおって沙綾を落とす。それくらいのことをしかねない男だ。
《まあ、でも貴島さんは本気じゃなさそうだもんね》
「……どういうこと?」
《合宿中に高峰さんが言ってたの。貴島さん、外面はいいけど中身は外道だって》
「そうなのか?」
《他の先輩に聞いてみたら、なんか前から言いふらしているらしいの。高峰さんが貴島さんに惚れてるんだって。前夜祭でわざと負けたのはそれがあるからみたい》
「あ、ああ」
《あたしに意味ありげな視線を送ったのは、嘘をつかずに高峰さんを牽制するためじゃないかな。気になってるけど好きじゃないってどうとでも取れる表現だしね》
「そういう意味か」
むしろそれだけの器量があれば、女一人落とすのは容易い気がする。何と言っても外面はいいのだ。俺も今回まではすっかり騙されていた。
――女一人落とすのは?
《だからね、貴島さんは心配しなくていいからさ、ちゃんと誕生日は祝ってほしいな》
「……沙綾、ごめん」
《え、何が?》
「気になってるけど好きじゃない。確かにそうだな」
《はい?》
頭の中に一つの考えが浮かび上がった。今まで思いもよらない発想だった。
奴の目的が俺だとしたら? あの場で目が合ったのは気のせいではなくて、俺への宣戦布告だとしたら?
「あんたのことドジって思ったのは取り消す」
《何のこと?》
「俺にとっての彼女は沙綾なのかって聞かれたんだよな」
《うん、そうだけど》
「……まさか、そんなこと」
やっぱりお前は気に食わない。
最初は木南だったけど、あの子も可愛いな。
そこまでこの子が大事なら――
貴島の言葉を反芻していく。奴は嘘をつかなかった。勝手に俺が勘違いしていたんだ。
――彼女の方に裏切ってもらおうか。
「リク」
貴島が裏切らせようとした彼女とは、リクだ。
《もしもし、海くん……?》
電話口から漏れる沙綾の声は、俺の耳に届いていなかった。

〈続〉

posted by 新月 朔 at 00:09| Comment(0) | はじめに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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