2009年10月19日

雪兎と白い都市 最終回掲載分 作:まーち

 



「それじゃ、お世話になりました」
 彼はテーブルを這うように動き、床に飛び降りた。後には水の道ができていた。それは部屋の電灯の光を反射し、わずかにきらめいて揺れていた。僕は思う。あの足跡は、元々は彼の体の一部だったのだと。雪兎は身をすり減らしながらでないと進めないのだ。
玄関の扉を開く木質の音が、小さく耳を打つ。外では雪が止み、しんとした静けさだけが僕ら二人を迎えてくれた。日は既に落ち、空は暗い紺色を呈していた。低く短い影は、辺りに同調しようとしているようにも見える。
 彼はこちらを向いて言った。
「また会えるといいね」
 僕は言う。
「そうだね。また会おうよ。そうだな……いつか君が北の地に辿り着いたなら、きっと僕も行くよ」
「それはいい」彼は笑い、僕もつられて笑った。「これで一つ君にも目標ができたわけだ」
「そうだね」
「向こうに着いたら手紙を出すよ。手ごろな葉を見つけてね、きっと親切な風が届けてくれる」
「楽しみにしてるよ」
 彼はゆっくりと後ろを向くと、雪の積もったコンクリート造りの道めがけて飛び込んだ。もふっと入った後に、ぴょんと跳ねた。
「それじゃ、楽しみに待っててよ。なあに、すぐ着くさ」
 彼はそう言うと下町の方へ跳ねだした。僕にはあぶなっかしい跳ね方に見えた。きっと、ずっと雲に乗っていたから、跳ね方もおぼつかないんだろうと思った。
彼が曲がり角を過ぎ、見えなくなるまで見送ってから、僕はゆっくりと家に入った。
窓やカーテン、ドアを閉め、居間の電気ストーブを入れてすこしすると、僕は急に人恋しくなる気持ちを抑え切れなかった。ソファに横になり、テーブルの上を見る。先ほどの水は乾きかけていた。僕はそのまま、水が、彼がいた証拠が蒸発してゆくのを見守った。そしてやがて、テーブルの上は乾ききった。
それから僕は初めて手にした雪の感触を思い出そうとしたけれど、できなかった。そういえば名前すら聞いてなかったな、と僕はふと思う。でもそれでもいいんだ。少なくとも彼はただの雪ではなく、雪兎なのだから。それだけ分かっていれば十分だ。


10



外へ出てみると、予想通りの曇り空であった。傘を片手に、ゆったりと駅を目指した。コンクリートの歩道を抜け、商店街の大通りに入る。道の脇に置かれた大き目の花壇には、霜柱が立っている。吐く息は白い。今年も、冬がやってきたのだ。
あれから幾星霜、今でも私はこの時期になると彼のことを思い出す。そしていつも、彼についてあれこれと思いを巡らす。彼の旅は良きものであっただろうかとか、その身を心配せずにいられる土地へ行けただろうか、などなど。
天気予報通り、ちらほらと雪が降ってくる。色とりどりの建築物、向こうに見える足を踏み入れたこともない山々、規則正しく立っている電柱とたゆんだ電線、電車の音、背景には曇り空。傘を開きながら、彼もこの辺りを通ったのだろうかと考える。仮に君がここを通っていたなら、そんなものに気を巡らして、まいってしまわないかと心配してしまう。都市は、あまりに君には向かない土地だからだ。
そして最後に、彼自身についても考える。
雪兎には雪兎の生き方があるのだ。そしてそれを捻じ曲げることはできない。生まれつきの運命と言ってもいい。それは後天的にどうすることもできないのだ。ただ受け入れるか、拒んで苦しみ続けるしかできない。
 彼は受け入れたのだ。
彼はまごうことなき、雪兎なのだから。


11



そしてもう一つ。雪の世界について考えるとき、私はいつも一通りのイメージを思い浮かべる。それはその雪兎に会ったときの夕方に似ているかもしれない。
吹雪が都市をあらかた白く覆いつくし、人影はなく、電灯ですら灯っているかわからないほどになる。電車は止まり、わずかに見えていたビルの壁面も、やがて雪で覆い尽くされる。そうして、白一色の世界が完成する。私は思う。誰がこの雪の下に、都市があるなんて証明できるだろう? 全てが雪の塊なのかもしれない。
夜明けが訪れる頃には、向こう側に地平線が見えている。何もなくなった平原で、人々は全てをやり直すのだ。やあ、参りましたなこりゃ。なあに、なんとかなるだろう、なんて言葉を交し合う。家屋もビルも駅も花壇も溶けてなくなって、あるのは大地だけなのだ。

もちろん、そんな日が訪れることはまずない。幼き日に抱くような、心ばかりの破壊衝動と言ってしまえばそれまでかもしれない。あくまで可能性の一つなのだ。


12



兄の話をしよう。実際のところ兄がこうした話をしてくれたのは、幼い私が病床に伏していたときのことであった。兄が蒔いた話の種は、私の中で芽を出し花を咲かせたというわけだ。何をもって、兄が雪兎の話をしたのかは定かではない。ただ単に外へ出れなかった私に、外の話をしてやりたかっただけかもしれない。今いるところより外には、こんなにも不思議な現象に満ち溢れているんだぞ……と。あるいは、そこに意図を見出そうとすること自体がおこがましいのかもしれない。だから私も詳しく兄に尋ねたことはない。それが一番自然なことのように思えた。


13



チャイムの音がすると、僕は一目散に玄関へと向かった。ガラス扉から相手を確認して、鍵を開ける。
「おう、ありがとう。ただいま。どうしたんだ? そんなに急いで」
「お、おかえり、兄さん……。さっき、家に……」
「落ち着けって」兄は言う。「雪兎だろう?」
 僕は二の句が継げない。兄は言う。
「さっきすれ違ったよ。ぴょんぴょん跳ねてたところを見ると、まだ元気があり余ってるのかもしれないな」
 僕は言う。
「本当に?」
「ああ、本当さ。あの雪兎、こっちのほうを振り向いて笑いやがったんだ。俺はあっちのほうなんて全然知らないでいるのに。おかしな話だろ?」
 僕はうなずく。彼に違いない。さっき別れたばかりの、彼に。僕はその雪兎について色々と訊ねる。目の色、耳の形、大きさ、雪兎についてのありとあらゆること。兄は一つ一つ丁寧に答えてくれた。
 いくつか聞き終わった後、兄は言う。
「さ、この話はもういいだろ。俺も雪の中歩いてきたから、靴の中がびっしょりなんだ。」
 兄は靴を上げて見せた。スニーカーからは、水が滴っていた。
「お前も、もう寝てなよ。まだまだ療養してなきゃ駄目なんだから」
「うん、わかった。雪兎の話、ありがとう」
「ああ、どういたしまして」
 僕は二階の自分の部屋に戻った。ベッドで布団をかぶる。目を閉じる前に上体を起こし、窓から外を見る。暗い空の中、都市は真っ白に染まって見えた。


14



悲しみの淵にいるとき、ぽっかり空いた時間に浮かんでいるとき、気を失いそうになるほど忙しいとき、私はいつもそんな地のことを思う。北の楽園、雪の国、雪兎たちの踊る白い平原……。空は星空のように濃紺で、大気は刺すように冷たい。山道の傾斜は急で、足もとを雪に取られながら、ざくざくと歩を進める。やがて白く染まった針葉樹に囲まれた、小さな広間に出る。
 踊る雪兎たちの中から一匹、こちらを振り向きやってくるものがある。見覚えのある、あの一匹だ。僕はもう一歩を踏みしめる。彼の声が聞こえる。やあ、よくきたね。ここまで大変だったろう……。



いまだ彼からの便りはない。
私はいつまでも待ち続けるつもりだ。
 いままでと同じく、そしてこれからも。



                  終
posted by 新月 朔 at 23:11| Comment(1) | 雪兎と白い都市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
文章から滲み出る不思議で柔らかい雰囲気が好きでした。次回作も期待してます。
Posted by at 2009年10月22日 22:06
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